<家族会報告 5月20日(土)>

  • 稲村厚先生のお話(ワンデーポート理事長・司法書士)

 

本日の参加者: 24名(19家族)、 初回2名(2家族)

17年くらいギャンブル依存を中心に関わってきている。法律系の人が依存に関わるケースはあまりない。依存症について古典的な考えが普及しており、その考えに合わない人がいる。

セミナーなどで、家族はこうしなければいけないとうのは間違いだと思う。循環途上の段階を持っての家族の関わり合い方というものがある。それぞれの家族状況が異なっているので、まずは自分(家族)の現状を分析することが大事だ。自分で自分のことを分析することはとても難しい。自分を分析するために第3者を使う、そういったことで家族会が大事になってくる。本人の特質を理解する上で、本人も色々な人がおり、特異性がバラけているのが実態である。セミナーなどで、どんな人でも依存症になると説明を受けるが、それは有り得ないことだ。本人や家族の性質や特質、また、おのおのの状況を知ることが重要である。

依存症という言葉を敢えて使っていないのは、その言葉が医療との結びつきが強いからだ。マスコミは依存症という言葉を頻繁に使っているが、使い道を間違っている。依存症は必ずしも医療を必要としない。概念が抽象的過ぎるので、極力具体的に話合うようにしたい。恨みと赦しについては、一番悩んでいるところであり、親子間では恨みはないが、夫婦間には存在する。

突放しによる新たな悪循環が生まれる。本人の反省モードからスリップへと家族の不信が生じ、家族から突放されて針のむしろ状態に陥る。さらに、本人と家族との不安が高まり、やけっぱちモードで介入者及び相談相手なしといった状態から時には自殺に走ってしまうケースがある。単に突放しするのでなく、突放し方法を考えることが必要である。例えば、これは出来るがこれは出来ないと言った、個別性のある別提案型(二の矢、三の矢を準備しておく)の方法に持っていく。もう一周させる必要があるし、丁寧に説得しなければいけない。

共依存を共依存症とは言わないのは、全く医学的に認められていないからだ。また、イネイブリングとは、その人の力になるといった意味であり、良い言葉である。やり方がどうかということであって、その行為そのものがいけないと言うものではない。

依存者は、自分のピンチを依存物によって守っているということがあるので、それ自身は悪いことではないかもしれない。依存せざるを得ない内・外の問題を確認し、そこを変える方がよいのではないか。その方が本人が変わりやすい。本人に取っての依存という意味を我々で考えてあげる。ギャンブルとか買い物は、余暇環境にあるのでその周辺を確認する。例えば、余暇に別な楽しみ方はないのか一緒に考えてあげるとか。普通は無いと応えるが、子供の頃の環境とかを遡ったりすると、ある場合がある。本人の環境を整備してあげる。健康的なストレス解消方法と余暇の過ごし方は、日本人の課題なのかも知れない。

共依存は責められるべきものではないし、家族が病気のはずはない。共依存とアダルトチルドレンは、概念が広がり過ぎてしまっている。刷り込まれた共依存の概念の弊害である。まずは、人間を理解することが何よりも先ではないか。家族は、本人の最良の支援者であり、自ら健康でいなければいけない。最後の最後に本人が頼るのは家族である。家族関係調整のための個別支援の必要性を感じている(個別相談を重視)。

本人への働き掛けのタイミングは、循環のなかの反省モードのところなので、何に向けて何を準備するかである。何回か循環する必要があるので、働きかけは無理なく作戦計画を立てて、長期戦を覚悟しなければいけない。恨みが続くとまた悪い方向に行ってしまうので、恨みに改善が見られたときには、赦しをこうことも必要である。本人に変身を期待するような高望みをしないこと。回復とは、本人が自己理解すること、また人間として成長することである。

 世話人:広瀬(渡邊)