11月家族会報告
- 今回の家族会は21家族・27名、うち4名が初めて参加されました。
【就労段階に進んでいる利用者4名の体験談】
<1.マサさん> アルコール依存症 クリーン歴2年10ヶ月
35歳の時に初めてアルコール依存症で病院に入院した。その後、2~3回入退院を繰り返したが、お酒は止まらなかった。断酒会や自助グループに通い、依存症の勉強をして頭でわかっていたつもりでも、ついつい手を出してしまった。2・30代で大麻、覚せい剤を少しやった、またギャンブルもやり続けてしまったことから、もともと依存症への性格はあったと思う。ここ相模原ダルクへの入寮は自分で決めた。以前から父親との確執がかなりあったが、今は父親が可哀想だと感じられ、父親に対する考えが変わった。亡くなった母親に、ここから出て飲まない姿を見せたかったが、それは叶わなかった。飲まない姿を姉や父親らに見せていくことが、母親への供養になるだろう。現在、すぐ近くのマンションで一人住まいをさせて貰っている。ここのデイケアやNAのミーティングに通っている。飲もうと思えば、いくらでも飲める環境ではあるが、飲もうとする気は一切ない。将来、どんなことが起こるかわからないので、もう飲まないとは言えないが、今日皆さんの前で堂々と話をできることが自分でもうお酒は必要ないことだと判断する。依存症という病気には効く薬がない。仲間と夜にミーティングを持って、過去の話を依存症者と一緒に言いっぱなし、聞きっぱなし、それが自分に効く薬だ。こうやってミーティングに参加することが薬である。やめている人達は酒を止めているだけでなく、人間的にも立派になっている。たな卸しのプロセスは過去の反省でなく、自分が生きてきた欠点を見つめ直すこと。先のことをあまり焦っては考えていない。1日1日を大事にして行きたいと思っている。まだ、父親に対して埋め合せをできる立場にはなく、心配を掛けないで自立することが大事だ。年齢とかクリーンの年数とかは関係なく、要するに何を目指すかであって、何よりも仲間とのミーティングが大事だと思う。何年経ってもこうやって話をできるのはこういった施設やミーティングがあるから。飲まないで正直に生きていくことを見て貰えれば、今は良いと思っている。人間的にもクリーンになる状態を目指していきたい。若い人達は何回もスリップしても仕方ないが、身体だけは壊さないで欲しいし、ミーティングだけには繋がっていて貰いたい。
<2.タカさん> ギャンブル依存症 クリーン歴4年
田中代表といっしょに千葉ダルクに入寮していた。自分がダルクに繋がったのは4年半前だった。
パチンコ依存症でお金を借りてパチンコをしていた。お金を工面出来れば人を騙してもいい。人の苦しみなどわからなかった。万引きをした少年時代は、仲間と同じことをしないと仲間外れにされるのが怖かった。お金を払わずにモノが手に入る。人が見ていなければいい。捕まることを考えていなかった。中学時代に友人と一緒にベルトを盗もうとして捕まった。あのとき、初めて捕まってしまったという実感が湧いてきた。自分のために迎えに来た母親が泣く姿を見るのが初めてだった。
自宅に帰っても、家族はだれ一人声を掛けてくれなかった。パーキンソン病の父親とあまり会話したことがなかった。でも、父親は病気で痛いとか苦しいとか何ひとつ言わなかった。決して、裕福な家庭ではなかった。自分のもとから家族が姿を消してしまい孤独を感じた。何故、一人ぼっちでいるのか。また、留置所に入ってもだれも面会に来てくれなかった。二度と苦しい思いをしたくない、でも、身体が自然と動くというか自分が意図していないところで。わかっていても、自分で自分を抑えつけられない辛さがあった。自分の力ではどうにもならないおもいをした。病気だから仕方がないでは済まされない。自分と向かい会うのが怖かった。人は、この4年10ヶ月の間に何も結果が残っていない、形に残るものがない、と言うが、自分ではやることをやってきた。ダルクでのスタッフや就労活動など。自分には何が向いているのか適正検査など受けてきてわかったのは、一人でコツコツやることが好きだとわかった。確かに、昔から手先が器用だった。一方、苦手なことは、人に訊くことである。2~3回までは訊けるがそれ以上は訊けなくなる。昔から人に訊けなかった。自分のプライドなのか、それでは社会では通じない。結果だけでなく、結果に至る過程も大事だということ、順序を踏むことも学んだ。救いは、周りにいる仲間である。自分を理解してくれる、許してくれる、受け容れてくれる仲間が大切だ。過去の自分は常に強がって仮面を被っていた。でも、この5年間に弱い自分がいるのに気付かされた。なぜ、自分は人との間に壁を作るのだろうか。一人でいた方が楽なときはあったが、誰一人助けに来てくれなかった。一人では生きていけない。自分は強い人間ではない。プログラムを仲間と一緒にやってきてよかったと思える。まだまだ、自分は仲間から貰えるものがいっぱいある。この3年間、だれ一人社会復帰した姿を見られない不安が仲間にあるに違いない。だから、それを自分がやろうとしたが、叶わなかった。しかし、他の仲間がやってくれている。そういう姿を見せてくれている。自分でなくて良いのだなと。自分は自分のことを考えよう。自分がこれからどう生きて生活し、この先の人生をやっていけるのか、本当に見えないものだ。やってみなければわからない。見えない部分に踏み出すしかない。そして、味わっていくしかない。良いなと思ったことを増やしていくしかない。ここは(相模原ダルク)ゴールでないし、ゴールで終わらせたくない。自分なりに、自分のためにできるだけやっていきたい。思い通りにならなくても、少しずつやっていけば、辿りつくかもしれない。今だけのことをやっていくことが正解であり、自分を見つめ直すことが大切だ。これからも、自分を良くするのは自分であり、一日一日をゆっくり歩み続けたい。
<3.ズイさん> アルコール依存症 クリーン歴2年9ヶ月
3年前の8月に山形から東京に出て来て、病院に入ってから相模原ダルクに繋がった。学生生活もそこそこやって、就職もそこそこの会社に勤め、そこそこ働いていた。生まれた地域は、商売人の長男が小さい頃からお酒を飲むことを容認されていたところ。お店や学校の先生もお酒を容認していた特殊な環境下で育ってきた。お酒で徳をしてきて、思春期には父親と一緒に晩酌していた。しかし、当時、身体が徐々に傷ついていっているのを気が付かなかった。怪我をして血が止まりにくかったのを後になってアルコール依存症によるものと知らされた。バブルという時代背景もあって、就職した会社でも接待などで飲む環境は整っていた。自分ではアルコール依存症への疑いもなく飲み続けていた単なる大酒飲みとして納得していた。突然、飲酒運転で会社を首になってしまった。その後、知人の紹介で新しく就職はしたが、会社の昼休みにビールを飲まずにいられない症状になっていた。アルコールが凶器に変わったときから順風満帆な人生が崩れ始めた。仕事中にお酒を飲む自分がいるのに、自分に対して何もできなかったおかしな自分がいた。いつかうつ状態になり、精神病院に入院し、原因がアルコール依存症だとわかった。入院中は酒を飲まないし、外出もしなかった。自助会にも通ったが、お酒を止めないといけないという重圧からまた飲んでしまった。その後も、自助会や病院に通いながら、飲み続けるために仕事をした。一方、自宅や実家も売却しなければならない経済状態だった。東京に出てきてから再就職したが、朝の出勤前に飲んで、10時の一服時に飲んで、お昼に飲んでから、また3時に飲んで、さらに終わったら飲むような生活パターンであった。また、会社も首になって、かつて山形での状態を全て話していた福祉課に駆けつけ、幸いなことに自分の記録が保存されていたことで病院まで繋いでもらった。さらに、病院からここ相模原ダルクへと繋がった。ここの施設では、自分の考えが通じなかった。自分が経験してきたことが無い人達と生活するうえで、一般常識が通用しなかった。例えば、そこで怒鳴ったら駄目でしょう、とかが通じなかった。ここでは飲まずに住めたのと、ミーティングで色々な人の話を聞けた。とにかくお酒だけは止めようとしていた。1年くらい経つと欲求が収まるよと言われ、実際に収まった。また、2年目くらいになると先が見えてくるよと言われた。ただ、一番自分で心配しているのは、今はこの施設で自分が守られているけれど、ここから出た際にまた飲んでしまうのだけは避けたい、そうすれば生き続けていけると自分は考えている。就職も一番繁忙な時代を経験してやってこられた、という自信があって、仕事を辛いと思ったことはなかった。だから、仕事は自分でなんとかなるな、大丈夫だという「財産」が自分にはある。就職するのが不安であるというのが自分にはまずない。ただ、お酒を飲んでしまうというのが不安である。お酒を飲まずにいられるという方法が、自助会に通い続けること。毎日、自助会に通える働き方しかしないようにしたい。それと、山形で成功したのは、自分はアルコール依存症であることを自分の死から守るためにみんなに伝えたこと。他にも、施設に繋がったということで、色々な人から得た情報によって自分の考え方の幅が広がった。ここに来て、自分をしっかりと見つめられ、前さえ向いていければ、時間は別にして良い方向に向かう。また、長くここにいると、失敗して施設を飛び出した人、施設を出てから成功した人、施設に来なくても成功している人など、色々な情報が入ってくるし、友達になれればその人の性格もわかってくる。自分だったどうしたらよいのか、自ずとわかってくる。こうやって、自分のなかに保険をいっぱい作っておくこと。だから、このような施設や病院を保険だと思っている。万が一、自分がスリップしたときには、ダルクや病院があるので命を落とすところまでは行かないまでも踏み留まれるから、今、酒を止められているのかなと感じる。山形であった酒を飲まないで居続けられる重圧から一生逃れられないので、お酒はいつでも飲めるのだが、飲んであげないよという考え方を一生持てれば自分の勝ちかなと思っている。
<4.タっちゃん> アルコール依存症 クリーン歴2年9ヶ月
10月1日から大手のミートセンターに臨時社員という形で通い始めた。相模原ダルクからの第1号者である。本格的にお酒を覚えたのは18歳からである。仕事は調理関係一本で53歳まで続けてきた。先輩に連れられお酒を飲みに行ったが、最初は飲めないで吐いたりもした。でも、何回も吐くうちに味を覚えると美味しく感じられるようになってしまう。お酒が悪かったのかと反省点はあるが、飲んで楽しいことはいっぱいあった。20歳で田舎から上京したが、仕事に対する田舎でのプライドはあったが、東京での仕事のやり方は全然違っていた。苛められ辛かったときがあった。半年に3回は田舎に帰りたいと泣いていた。その度に、父親から我慢をするよう慰められたが、父親のお蔭で53歳まで調理関係一本でやって来られた。やはり、東京は楽しかった。お酒は最初楽しかったが、変な方向に向かってから大変になった。ここ相模原ダルクに入寮したのは、妻と自分の兄によるものだった。本当に、妻は我慢してくれ、妻ほどの人は他にはいない。妻は2度も大病し、見舞いにも行ったが、行く前にいつもお酒を飲んだ。退院のときもまともに迎えに行ったことがなかった。そこまでしてしまった自分の姿がまだ頭のなかに残っている。妻は何でもしてくれ、自分で尻を拭いたことがなかった。結婚して妻には甘えてばかりだった。いつも自分に尽くしてくれた。お酒で妻には本当に迷惑をいっぱい掛けた。妻に3ヶ月病院に入院させられたが、3ヶ月経てばまたお酒を飲めるという頭しかその時はなかった。1週間に1回必ず見舞いに来てくれた妻だった。それも自分の甘えから、来て当たり前だと思っていた。案の定、3ヶ月後に退院してまたお酒を飲んだが、以前よりも酷くなってしまった。これをきっかけに妻が兄と相談して、今の施設(相模原ダルク)に入れさせられた。入ったときに「なぜ、俺はこんなところに入れられたのだろう、邪魔なのか」、と彼らを憎んだ。入寮して2年経過するが、一度も彼らと会っていない。会いたい気持ちはあるが、会ったらどうなるのだろうという気持ちもある。埋め合せしたいという気持ちもあるが、どのように埋め合せしたらよいのかわからない。会いたい気持ち、会いたくない気持ちが半分半分。今は会いたくないという気持ちが強い。でも1回は会わなくてはいけないと思っている。一年経てば大丈夫だと言われたので、ミーティングの度に、1年経ったら出るといい続けた。しかし、一方では、出たらどこに行くのだ、何をやりたいのだ、またお酒を飲むだろうな、と考えている自分がいて、田中代表から就労活動するよう指示があり、就労ができたら出られるだろうなとも考えた。最初は職を探したが、うまく見つからず、ここに居ると寝る場所があり、飯も食える、小遣いも貰えることを考えるとここに居続けた方が楽だなあと思えるようになり、仕事を探すのが嫌になった。でも、田中代表から葉っぱを掛けられ、仕事を探していた自分がいた。自分が妻に対してやったことを思うと普通には帰れない。就労も入った順番からいうと、ここにいる他3名の方が先であり、自分がそれに繋ぐなと思っていたが、相模原ダルクから自分が第1号であるのはプレッシャーである。自分みたいな者を見本にして貰っても困るが、後に続く人間が出てくれればそれでよいのではないか。自分が可愛いし、56歳になって残った人生を何とかしたいなと考えている。3年ぶりの仕事で歳取ったこともあって疲れるが、今は何とか頑張っている。女性がいっぱいいる職場で「すみません」を連呼している自分が情けなく感じるが、入社間もないので堪えている。ただ、調理関係の仕事の経験もあったので、今の仕事がきついとは思わない。ただ、未だにお酒をのみたいという気持ちがある。今の仕事を続けるかわからないし、と言って、調理関係以外の仕事を知らない。仕事を頑張っているのは、自分のためである。飲んだら今と同じ生活をしなければならないのはわかっているし、少なくとも自分の尻は自分で拭かなければならないと思っている。どういう形になるかわからない。就労については、自分の後に繋いで貰いたいが、人それぞれ考え方があるので、社会復帰するにも自分で考えて自分なりに挑戦して貰いたい。 世話人:広瀬 (代 渡邊)