<2023年2月家族会報告>

2023年2月11日(土)28名参加(22家族)

講師:千葉ダルク代表 白川雄一郎

 

高澤挨拶

皆さんこんにちは。私事ですが、3月末を持ちまして退職させていただくことになりました。実は70過ぎてから体調の方が不良が続き、ゆっくりさせていただこうと思いまして。皆さんには本当にいつも家族会でお世話になりっぱなしで、何の力にもなれなかったのですが。来月の家族会にも参加させていただきますが、ご了承のほどよろしくお願いいたします。4年前に大腿骨骨折やって、それから体力が落ちまして70迎えたら本当に、気力精神力も。まだ認知症まではいってないと思いますが忘れっぽくて。60代と70代ではこんなに違うのかなという思いです。私は家族との再構築の方もなんとかうまく行きまして、そういう面では本当にありがとうございます。来月もおりますので、一つ宜しくお願い致します。

千葉ダルクの白川です。相模原ダルク今年の秋で丸10年という事ですが、田中君と二人で去年亡くなった近藤さんの所に行って、相模原か町田でダルクやりたいと言っているんで、お願いしますと話にいったことを覚えています。相模原ダルクはいろんな世代の職員がいてくれると、特に高齢の方には安心感があると感じていました。いつも事務所に居てくれる、安心感のある顔が。そういう髙澤さんが3月で退職されるというのは、残念ですが。

色々なダルクがあってそれぞれ特色がありました、元々は。これはいいことなんですが、行政からの障害福祉のサービスを受けるにあたって、その差別化が少しずつなくなってきている。千葉ダルクも今年で丸20年になるので、11月18日に20周年記念フォーラムをやろうと思っています。遠いんですけど関心ありましたら是非来てもらいたいと思いますけど。その辺のことを問題提起したいと思いまして。確かに障害福祉サービスを受けて、ダルクとしての正規雇用で職員を雇えて、利用者の居住環境とかも良くなってきている。ただ障害福祉サービスを受けると、みんな同じようなカラーになってしまうんですね。

僕が千葉ダルクを始めた20年前は千葉の松戸が最初で千葉市に引っ越したのですけど、1年ピシッとダルクに居て、1年過ぎたら簡単なアルバイト始めて、仕事について自立ということだったんです。千葉ダルクでは半年たったらもう仕事に出たい奴は出ろと、その代わり仕事を徐々に増やす期間は長くとって、より社会に近い千葉市中央区あたりでスタートさせるつもりでいました。今も連携している群馬の藤岡の施設は山の上にあって、元ゴルフ場のホテルをそのまま借り上げて、町中から切り離した方がいいような人はそこに入れる。また懇意にしている栃木ダルクの場合は、那須で特別なプログラムをやると、そういった役割分担があった。それがなくなってきているなというのが、この間感じている事です。

家族会の方、ここに来てくださっているのは、すごい事ですよ。他の方よりも回復のチャンスがちょっと上がっていると思います。ただアクションはしないで下さい。リアクションはして下さい。かつてそうだったでしょ「今食べてるのかしらとか、また薬やってるんじゃないかしら」とか心配して。先々どうなるか考えて、アクションを起こそうとする。皆さんにお願いしたいのは、せっかくこういう所に来て勉強というか、相模原ダルクの職員との連携の中で本人の回復のために努力しているのであれば、アクションはしないでリアクションをして下さい。リアクションというのは、そこで考える時間がある、ダルクの職員に相談する事ができる、それはすごい大事な事だと思います

僕は薬止まって今年で24年目になるんですけど、今年63才です。神奈川県の三浦岬の出身で、まぐろ漁港で有名な所ですけど。よく雄一郎さん刑務所何回ですか、なんて聞かれるんですが、僕は刑務所行ったことないし、指もあるし、そういう業界ではなくて真面目なサラリーマンシャブ中でした。父親は市役所の職員で、母親はまぐろ漁業の娘でね、結婚してから親父の母親が細々やっていた美容院に入って資格取って美容師として働いていて。二つ下に弟がいてといった普通の家庭でした。親父は真面目な人で怖かった。酒も体質的に飲めないし、ギャンブルも俺がガキの頃は市役所の仲間と家で麻雀なんかしてたけど、俺たちが物心つく頃にはやらなくなっていたし。女性問題も起こさないし。真面目な親父で、自宅は市役所から歩いて10分くらいの所にあるので、親父は5時15分頃には帰ってくるんですよ。だから弟と喧嘩してようが、お袋に悪態ついていようが、5時過ぎるとピタッとやめている、そういう家庭でした。漠然と今思うには、親父と違った生き方したいなというのは、ガキの頃からあったのかなと。何があったのかもう親父も亡くなっているしわかりませんが。小学校では勉強はできて、3年から剣道をやって、親父は俺を自衛隊に弟を警察官にしたかったみたいで(笑)。性格的に負けず嫌いで高慢で、勉強も剣道も一生懸命やりました。中学では神奈川県は高校進学の方式が少し特別で、中2の終わりにアチーブメントテストがあって、中2の3学期の成績で行く高校が半分決まってしまうんですよ。中学3年の成績はあまり問題ではない。僕は中2の3学期の成績で一番偏差値の高い高校も大丈夫だろうと言われたんです。それで何が起こったかというと、高慢だからとりあえず目先は大丈夫だから、ちょうど思春期で考えるのは女の子ですね。ちょっとお水っぽい、これは死語ですね、女の子が好みだったんです。俺がいいなと思う女の子は、スカートが長くてくるぶしぐらいまであって、そういう彼女たちはだいたい不良と呼ばれる奴らと一緒にいるんです。その年代の子は煙草吸ってるだけでスゲエと思う。週末どこかで集まって酒とか飲んでるらしいよとか。1970年代ですから。目先の高校は大丈夫だからと思う心の隙というか、そういうのと付き合うのが面白くて。週末特定の友人のところに集まって、親父お袋には勉強しに行くと言ってお酒飲みました。中学生の頃は親父の体質で、お酒飲むと蕁麻疹が出て心臓バクバクいって、気持よくなるどころじゃないなと思ったものです。次はシンナーですね、今は殆どいなくなったシンナーですが、その頃も脳ミソ溶けちゃうとか歯が溶けちゃうらしいとか言われたけど、出来れば大学まで行きたいから脳ミソ溶けるのは勘弁だし、まだ彼女もいないのに歯が解けるのはダメでしょうとか思って、最初は断ってたんですが、何度か勧められるうちに「今度断ったらこいつらと遊べなくなるな」と思うようになって。遊べなくなるのは嫌だなあと思って。「ちょっとぐらいなら大丈夫かな」と思って吸ったんですね。そしたらよかったですね。

ダルクに来る人達、自分の気分を変えてくれる何かに対する執着がありますね。今から考えると、周りでシンナー吸ってる奴らよりも、俺の方がおかしかったですね。一回吸った時からすぐはまりました。俺はよく飲んじゃうんですよ、シンナー、トルエン。俺は理屈っぽくて、気化させてこんな気持ちいい物ならば、直接体に入れればもっと気持ちいいはずだと。ごくごく飲んで、周囲から、止めろ止めろ、死んじゃうからと言われてもラリってるから。ダルクに時々いますね、シンナー飲んじゃった奴。そういう中学生でした。社会人になってから覚醒剤始めたんだけど、23で始めた覚醒剤と違って、シンナーの場合は、機会使用というか、あれは匂いがするから、親や使わない友達と会う前には吸わないでいることができました。依存というよりは乱用のレベルだったのかなと思います。

シンナー吸いながらも高校進学して、高校でもチャンスがあれば吸ってたから、大学は現役で受からなくて1年浪人して。高校2年の夏休みまで一切勉強してなかったです。シンナー含めた遊びしてたんだけど、漠然と大学行きたいなって思いがあって。親父が市役所に勤めたきっかけは、親父が高校3年の時おじいちゃんが脳溢血で亡くなったんだけど、それで大学いけなかったんだよねと、ガキの頃から聞いてたから、漠然と大学行くものだと思ってたし親も行かせたいと思っていた。それが重圧でもなかったし、進学校だから当然進学というのがあったけど、高校行ったら勉強しなかったのです。3年になっていざ過去問を見たら愕然とするわけですよ。全然解けない、わからない。高3の夏休みから1月までの半年間は一生懸命勉強した。でも3年間の物を半年で取り返せるわけはなくて、一年間浪人することになりました。予備校に通いましたが、でも楽しく予備校の仲間と遊んで、尻に火が付くと一生懸命。高校の半年間と予備校の半年間、本当に勉強しました。一日8時間から10時間。

1年間浪人して、早稲田大学の社会科学部になぜか受かって。三浦岬から高田馬場まで通えないから、一人暮らしするんですね。そうすると悪い虫が騒ぎ出すんですよ。その頃は新宿で飲料水の瓶でシンナーやトルエンを800円位で売っている時期で、下北沢に住んでたんですけど、新宿まで毎日シンナー買いにいってそのままだったら死んでたかもしれない。ところが試験の日程でどうしても大学行かなきゃいけない時があってその時にアメリカン・フットボールに勧誘されたんですね。スポーツは好きだし「どこかでシンナ―毎日の生活から抜け出さなきゃ」と言う思いもあったんでしょうね。フットボールやるようになったらシンナーぴたっと止まりました。週に4日間フットボール一生懸命やって、週末には酒ですね。その頃には飲めるようになっていて、スポーツと、お酒と、女の子と遊ぶこと。乱用の切り替えというか、依存の切り替えというか、それで大学生活は楽しかったです。

その当時大学文系の就職ナンバーワンは保険会社でした。俺は大阪に本社のある損保会社に就職しました。何故人気があったかといえば、給料がいいしバブルつぶれる前だったから金融関係がつぶれることなんて絶対ないと、世の中で信じられていたからです。今ならわかります給料がいいってどういうことか。忙しいんですよ。今は残業規制があるけど、俺が勤めだした頃は、毎月20日過ぎると翌月3日の締めまでは夜中の2時3時は当たり前ですね。電車なんかないから、横浜の支社から会社の軽自動車で三浦岬まで帰って、翌日また来るという生活でした。負けず嫌いで高慢だから、一生懸命仕事もしました。

新入社員になった10月ですよ、たまたま中学時代のシンナー仲間と飲む機会があって「そういえばいい物あるよと」言って出されたのが覚醒剤です。何年か前に深川の通り魔事件というのがあって、覚醒剤でおかしくなって、街を歩いていたベビーカーの親子連れ2人刺し殺しちゃった事件がありました。警官に両脇掴まれて口に舌をかまないようにタオルをかまされた姿が報道されて。当時はテレビの終わるころに「覚醒剤止めますか人間止めますか」って放送流していました。ただ俺はシンナーで歯が溶けちゃうこともなかったし、覚醒剤もちょいと使う分に大丈夫だろうと。シンナーの場合は何回か断りましたが「覚醒剤は一回やってみるか」と軽い気持ちで使いました。

とんでもないことになりましたね。それまで自分が使った薬物は、お酒、シンナー、大麻、ダウナー系で脳の活動が緩くなって体もフワンとなるようなもの。覚醒剤はアッパー系で、逆に頭がハッキリするし元気が出るし。最初使った時に「こんないい物ないわ」と思った。「これをうまく使えばスーパーサラリーマンになれるわ」と思って。使ったその日から、俗な言い方ですが覚醒剤のトリコになったというか。2日も3日も寝ないで動けるし、ほとんど食わないで動けるから、こんないい物ないわと思って使ってたけど、みるみる俺の体重はおちてきて、10月に始めて翌年の6月に親にバレるんだけど、8ヶ月の間に73㌔あったのが48㌔になってた、25㌔位おちた。俺は毎日自分の顔見てるから徐々に痩せて行くとそんなにおかし思わなかった。親もおかしいとは思ってたんだろうけど、まあ皆さんもあるでしょう「うちの子に限って」という思いで最後まで。2日も3日も寝ないで家に帰ってきて、お袋が用意してくれた夜食に手も付けず、スーツのまま倒れるようにして寝ちゃったんだよね。次の日お袋が起こそうとしてまじまじ俺の顔みて、こんなはずないと思ってセカンドバッグあけたら注射器と薬が出てきて、すぐ家族会議ですね。親父も起きてきて、もう会社に行くなという話で。でも始めて8ヶ月止められるわけないですよ。

当時は「薬が切れるとのたうち回って薬を求めて、使うとスッと消える」とかそんな思い込みがあって、それはアヘンやヘロインの禁断症状であって、覚醒剤には一切そういうことなくて、切れたからイライラはするけど苦しがったりはしない。俺はズルいからそういう誤解をうまく使って「お父さんお母さん俺は覚醒剤やっても重度じゃない、ウソだと思ったら一日一緒にいても禁断症状なんか出ないからね、大丈夫だよ」とか言って。でも親はこの子がこんなのに手を出したのは仕事が忙しいからだと思って、ありがたいですね親は。会社すぐ辞めなと言って。それから半年ぐらいはほぼ軟禁状態ですね。家に居てフラフラ、アルバイトくらいはするけど、暮れまでは家にいて、それでも近くのコンビニまで薬もってきてもらって、煙草買いに行くふりしてチョロチョロやってた。逆耐性というか、薬も長くなると食えるようになるし眠れるようになるから、体重も増えるし。親ももう大丈夫だろうということで、12月には東京に本社のあるファッションブランドに就職して、東京で勤めだしました。

派手な業界で、後で知ったけどそこの社長は有名レゲエ歌手と大麻でパクられたらしいです。就職するとバブルはじける前だから仕事なんかしなくてもバンバン売れて、前年比150%が当たり前の時代でした。その会社に居る間に、ヘロインとかコインとか、LSDとか覚醒剤以外全部使って。同じ会社の女性と結婚して、彼女も大麻くらいはやったことある人ですがお腹に子供が出来ると、酒も煙草も薬も一切やらなくなった。俺に止めてくれ止めてくれというようになった。…でも止められないんですよ。薬中なんですよ。そのうち一緒に薬をやる女性と付き合うようになって、あまり家に近寄らなくなって。女房は親と相談して、今度は親族会議です。俺としては子供には影響ないと思っていたけど、お互いの両親は子供に障害が出たらいけないと、一人目は流さざるを得なかったです。女房は引き続き煙草も薬もやめてくれてという。「じゃあ2人目出来たらやめるよ」と。だけど止められなくて「じゃあ子供が生まれたらやめるよ」と約束して。元気な女の子が生まれました。まてよ「お父さんが何か変なことしていると物心つく頃には止めるから」と。結局、女房は子供が2才か3才の頃、子供連れて実家に帰ってしまいました。一番かわいい頃です。

俺は女房恨んで悲しんで怒って、ほっとした。「これで自分で稼いだ金で薬使ってもうるさいこと言う奴がいなくなった」って。喜ぶまではいかないけどほっとした。これはダルクでミーティングする中で思い出したことだけど、自分のせいで女房が子連れで出て行ったのに、嬉しくなっちゃうんだから狂ってるよね。「覚醒剤止めますか人間やめますか」って、こういう事なのかと思いました。怒ったり悲しんだりまではなんとかわかるけど、嬉しくなっちゃうんだから、普通じゃない。それが33才の時かな。それから39才まで6年間、薬止まらないんです。

途中でバブルがはじけて、会社は商事会社に合併吸収されて、仕事しない社員はお払い箱ですよ。俺は横浜横須賀にある学習塾で働くようになって。最初は週末だけ覚醒剤、すぐ元の木阿弥で毎日薬使うようになって。何度も何度もやめようと思うんですね。その時の気持ちって、皆さん経験あるかもしれないけど、決して嘘つくつもりではなくって、親をはぐらかそうなんて気持ちも一切ないです。本当にやめたいと思って何とか親の下に来て、「俺は薬を止めたと、先月やめたと、ただ薬で作った借金を清算しないと出直せないから」と。だまくらかす気持ちなんてないですよ。だけども、100万作った借金を親にしりぬぐいしてもらうと、次は120万借りられるようになるんですよ。完済したら次はもっと。その繰り返しでした。

沖縄ダルクに入寮していた時に「君は一体いくら薬にお金使ったか」と試算するプログラムがあって、計算したら2千万から3千万の間位だったかな。サラリーマンシャブ中だから自分で稼いだ金で何が悪いんだっていうけど、よくよく考えてみると、自分で稼いだ金は自分の衣食住に使っていて、薬代は借金、もっと言うと親だった。給料で衣食住払い、飯も食い住居も賄っていたとしても、薬代はどこから出てきたかというと、親でしたね。6年間学習塾を転々としならが薬止まらない、2か月止まったことがあった気がするけど、だめでしたね。

本当にギブアップしたのは39才、1999年11月28日です。その時には横浜ダルクの職員でよく相談に乗ってくれた人が、コップに水を満杯に入れて、「お前にとって薬はもうここまで来てるんだ。これ以上入れてもこぼれるばかりでなんの気持ちよくもないだろう」と。まさにそういう状態でした。薬やっても全然気持ちよくない。それでも薬やめられなかったのは、高校から大学まで行って一流企業に勤めて、プライドもあって高慢だったけど、39才の頃はいろいろな意味で最低ですよ。社会的にも家庭的にも経済的にも最低の人間。「でもあいつらこれは知らねえだろう」と。自分の最後の最後の拠り所が覚醒剤だったのです。そんな思いで覚醒剤を続けていたけど、どうもそれが気持ちよくなくなってきたし。覚醒剤使えばよりよい人間になれるだろうと信じて使ってきたけど、それもダメ。39才でこのまま…でもちっぽけなプライドがあったんでしょうね。このまま死にたくねえなと思って。

もう親父は定年退職していたけど、親の所に行って「もう薬やめられない。助けてくれないかな」という言い方で話しました。親は俺が薬やめて立ち直って帰るんじゃないかと信じていた。11月28日に横浜ダルクがクリスマス・チャリティコンサートみたいなのを雪の下教会でやると、それのお知らせが新聞に載ってて切り抜きを残しておいてくれて、そこへ相談に行けと。そう言ってくれたのです。その時相談にのってくれたのが、僕より一つ上の横浜ダルクの職員。電話した時、なんだいい年してまだやってるのか、とか言われると思ったんですけど、「ああそうか、俺もお前と同じようだったけど、10年前に止まったよ。よく頑張ったじゃん、そろそろやめなきゃな。」と言ってくれた。彼は同じ問題抱えた女性と結婚して子供は保育園。二人で横浜ダルクに勤めていたから、夕方になるとその子が戻ってきて一緒に家に帰るという生活していました。漠然とああいう風になれたらいいなと思いました。ただ横浜ダルクは俺が16年間薬使っていた、横浜市南区のど真ん中にあるんです。そこに2週間通ったけど責任者から「お前もうここには通いきれないだろう」と言われて、その当時一番遠かった沖縄ダルクに行かされました。当時沖縄までは片道でも4,5万かかって容易に帰っては来れない。それが良かったのだろうと思います。

1年半沖縄ダルクにいたかな。その後ローソンでバイトして。俺の顔ゴツイですから万引き対策要員ですよ。普段はストックで飲物補充してるんだけど、内線がかかってきたら掃除用具もってフロアに出て、万引き対策。3か月仕事しました。一人の職員が名古屋ダルクの職員になるからと言って抜けるので俺がスタッフやらせてもらう事になりました。自分の中では沖縄ダルクに居るうちに薬止めて、住み慣れた横浜横須賀に戻って学習塾でも開くかと思っていましたが、プログラムやるうちに、いろいろな仲間を見て、一からやり直すかというという気持ちになりました。そして職員に。その頃は入寮者は生活費1か月6万円、一日2千円。足らせる使い方をするように工夫しました。未だに一日2千円使うと使いすぎかなと思いますね。23年経っても俺の基準は一日2千円。職員になっても最初の頃は給料6万円でした。親父が退職金の中からダルクの入寮費用を出してくれてたから、入寮費払わなくてもダルクに居られました。2年半やって、こっち帰ってきて、最初は横浜ダルクに居候したのかな。寮長みたいな形でした。その頃千葉のダルクを作るのと、高知にダルク、群馬の藤岡、この3つから責任者の声かかったのだけど、最初に声かかった千葉に2003年3月にダルクを作りました。

何故僕が家族会に来ているか。2008年15年前に親父が亡くなり母親が3年前に亡くなっています。男親と女親では違うなと思ったのは、親父が死ぬときのこと。最初親父から手巻きのローレックスをもらったんだけど、薬を使いだしてすぐ質屋に流してしまったんです。親父は死ぬ間際心臓発作で苦しくて暴れるので、医者が危ないから時計を預かって下さいと言うので、俺が時計を外してポケットにいれたんだけど、親父はそれをじっと見ていたよね(笑)。死ぬ一時間前くらいですよ。今から思うと「それは質に流すなよ」といいたかったのかな(笑)。その時もう俺は千葉ダルクの責任者だったんですが。4年位たってたけど「あいつのアレは一生ものだから油断するなよ」と言ってたらしいです。でもお袋の時は親父の時から10年たっていたから「頑張ったね。よく頑張ったね雄一郎」と。男親と女親ではこう違うのかなと思った次第です。お袋が死んだ時は弟もいて、前の家族の娘も、再婚してからの娘も。俺は再婚して今は11才の娘がいるんだけど、先の娘はもう結婚しています。沖縄ダルクに居るころだから小学校5年くらいから行き来しています。最初給料6万円だから毎月は送れません。職員になったその月から毎月7千5百円ではかっこ悪いから、1か月おきに1万5千円ずつ大学出るまで送りました。徐々に給料も増えたから少しずつ援助するようにしましたが。今男の孫が2人いて。娘の結婚式には父親として参加しましたし。それもこれも薬が止まったからであって、ダルクのおかげかなと思います。お袋が亡くなった時にはちょっぴり寂しかったけど、今の女房や子供や、弟の家族や、元の娘の家族や、いろいろな人がいてくれました。

今日家族会だから話しますが、俺が薬やめたのは、やはり経済的なものですよ。親父が退職した時は音信不通で勘当状態だった。退職金で親父とお袋がヨーロッパ一周旅行いったんですよ。それは後から聞いた話ですが、俺は学習塾の仕事でたまたま三崎口まで行った時に、ちょうど2人が出発する時だった。大きなスーツケース持った二人が三崎口の駅にいて、親父は俺に気が付いたけど目も合わせない。お袋は済まなそうな眼をして俺の方を見ていたのを思い出すのだけど。弟が結婚した時も知らなくて、近所の酒屋の親父に弟さん結婚したんだってと言われて。その時は「俺がこんなに薬でグダグダしてるのに、なんだよ親父おふくろは旅行なんて行きやがって、弟は俺に声もかけずに結婚しやがって」その時はそんな風に思ったけど、後から思えば家族はそれぞれの生活をしていた、自分の楽しみをやっていた。それが「俺にこのままじゃいけないな」と思わせるキッカケでもありました。弟の結婚と、両親のヨーロッパ旅行と。それがキッカケだったような気がします。何が言いたいかというと、皆さんは皆さんの人生を楽しんで、それが本人の変わるキッカケになる可能性があるから。その時は「俺がこんなに薬でグダグダしてるのに、なんだよ親父おふくろは旅行なんて行きやがって、弟は俺に声もかけずに結婚しやがって」その時はそんな風に思ったけど、後から思えば家族はそれぞれの生活をしていた、自分の楽しみをやっていた。それが「俺にこのままじゃいけないな」と思わせるキッカケでもありました。弟の結婚と、両親のヨーロッパ旅行と。それがキッカケだったような気がします。何が言いたいかというと、皆さんは皆さんの人生を楽しんで、それが本人の変わるキッカケになる可能性があるから。

文責:伊藤