<2022年12月家族会報告>
12月17日(土)1時半~5時 26名参加(21家族) 初参加4名(3家族)
講師:朝倉崇文先生(北里大学医学部 精神科医師 KIPP担当)
「アディクションってなに?~「やり過ぎる」をどう扱うべきか?~」
パワーポイント使用 印刷資料あり
北里大学の朝倉です。普段は大学病院で、患者さんを診るのと研究と、学生さんの指導などしております。大学病院では普通の精神外来と専門外来とがあり、ギャンブル障害、薬物依存、アルコール依存の専門外来の担当です。あと相模原市精神保健福祉センターで薬物やギャンブルの専門相談担当をしています。あと横浜のドヤ街にある共同診療所で、精神科と内科と両方診ております。内科ですと、私は依存症ですと言ってない人も診療できるのでいいです。立川の拘置所にも診療に行きます。過去には厚労省や内閣官房で、依存症対策のプロジェクトに参加したこともあります。また災害支援の担当者として、ダイヤモンドプリンセス号に乗り込んで支援した経験もあります。
「依存症とは何ぞや」ということですが。依存症にはどうしても負のイメージが付きまといます。「だらしない人がなる、意志の弱い人がなる、快楽追及の結果だ」と。これが受診と治療を難しくしています。こういう問題は社会の問題でもあるのです。社会にあるからこそ、ご本人やご家族にもこの意識が浸透していて、ご本人さんが「自分は依存症で治していかなければいけない」という考えから離れてしまいます。ご本人さん自体に自分の状態に対する偏見・差別があって、ちゃんと受け止めにくい、という問題があります。有名な方でも依存症の方おられますね。(パワーポイントや印刷資料で)昔の人から最近の人たちまで写真でお見せしておりますが。昔と今で少し違う所は、つい10年前くらいまでの人達はみんな依存症で亡くなってしまいました。しかしこの方はアメリカのメジャーリーグで活躍された人ですが、引退されて治療に向かい回復されて、今は依存症の施設をつくられました。表舞台から消えて自分と向き合って、新しい人生を始めるという人もたくさん出てきました。今はもっと段階が違うのかもしれません、これはヤンキースの選手ですが、2016年にアルコール依存を治すためシーズン途中で一回野球を止めて施設に入られて、その後復活されました。元の成績より良い結果を出して最後まで選手として全う出来た人です。かつては全てうまくいかなくなって亡くなってという方が多くて。次の段階で今までの人生を一度棄ててリセットして生きなおす方が出てきました。最近では途中でリセットして元の生活に戻るという方もいます。とても印象的でした。
「そもそも依存症って何」ですか、という学術的な話に入ります。依存症とかアディクションとか嗜癖障害とか、様々な言葉があります。「あること(特定の物質、行動、関係性)をほどほどにできなくてやめ続けられない事」を、医学的には「アディクション、嗜癖」と言います。アルコール、薬物、ギャンブル、ゲームとかいろいろありますが、ディペンデンス依存症と言いますと物質依存で、ある物を止めようと思っても続けてしまう事を言います(Substance Dependence)。物質摂取ではなく行動を続けてしまうのを行動嗜癖(Behavioral addiction)と言います。両方を合わせて嗜癖(Addiction)アディクションと言います。この辺は英語圏では分かりやすいですが、日本語では混乱しています。日本語では嗜癖という言葉は一般用語ではないからです。アメリカなどではアディクションとはメジャーな言葉で、あなたが好きよと言った場面でもアディクトと使いますけど。その辺でギャンブルは依存症だとかそうではないとか、誤解されがちなのです。
「アディクションの歴史」どのように社会の中で問題化されてきたかを見てみます。「依存性物質があって、それを摂取するとまずいことが起こるよ」ということは結構昔から言われています。でもしょっちゅう使うわけではないので、使える立場に居る人達はすごく少なかったので、問題にはなりませんでした。紀元前3千年にはアヘンが栽培されているようですけど、社会問題としての記載はないんですね。600年頃になるとムハンマドが酒を禁止したり、キリスト教でも神の与えしものを乱用するのは大罪と言われたりしました。このころは貴族や大金持ちは乱用する事はあっても、一般市民は乱用する余裕はなかったと思われます。これが大きく変わったのが、ペストの蔓延です。今もコロナでペストが話題になっていますが、コロナで経済がいったん止まって再開する事で人手不足が世界中で起きています。ペストの時は比較にならないほど多くの人が死んだので、労働者は貴重になり、特権階級は減りました。労働者の給料もあがり、偉い人の問題だったのが普通の人の問題になるという事が起きました。その後産業革命が起こり、いろいろな依存物質が大量生産できるようになったのです。最たるものはお酒です。ワインや日本酒のような弱いお酒ばかりでなく、度数の強い蒸留酒等がどんどん作れるようになりました。「辛さから逃れるのがいい事だ」みたいに思われる時代になって、弱い人たちにはどんどん使ってもらいましょうと。それでモルヒネが開発された時、アメリカで女性は弱いからストレスをかけないようにモルヒネを勧めたのです。すると中~上流階級の女性たちにモルヒネ依存が流行った。依存性物質を使う事が悪い事だと知らないでどんどん広まってしまった時代があります。それの揺り返しで1840年代にはアヘン戦争も起こり、世界中でアルコール依存症が社会問題となり、第一次世界大戦前に禁酒運動が始まります。世界中で注目されるようになりました。そのあと押しになったのが産業革命のつながりですがフォーリズムです。フォード社が流れ作業で車を作るようになりました。職人さんが一生同じ所で同じ物を作ってくれたら会社はもうかります。使い捨てじゃない労働者ですから土日健康に過ごしてもらいたい。そうするためには土日お酒飲んで月曜出社できないようでは困るということで、お金を使って社員の健康を守る事に力を入れると。禁酒運動には経済界も後押しして、日本以外のほとんど国が禁酒法時代に入ります。「酒は止めましょう」という社会になりましたが、これはあまり意味がなかった。禁酒法はじめ様々な依存物質に対する規制が世界中でなされましたが、それで依存者が減ったかというとそうではなくて。逆に増えてしまった。また禁止する事で合法だったものが違法になると、マフィアなどが生産に携わることになり、反社会的勢力が強くなってしまい、そこから買うと組織から抜け出しにくくなります。決して合法時代より良くなる事はなかったのです。そして禁酒法は世界からなくなります。お酒以外の依存薬物の規制も緩やかになってきて、無罰化された国が多くなりました。というわけで「禁止する事で何とかなる」という考えは間違っているというのは、歴史が証明している所です。
その中から自助グループが出来たのですが、自助グループができたのはまさに禁酒法時代でした。もともとアメリカでキリスト教福音派がアルコール依存でどうにかしたいですという人に、カウンセラーを派遣する事業をしていました。カウンセラーが来て話を聞いてくれるのです。ある時あるカウンセラーが話しを聞いてから、私も依存症なんですと話しだしました。お互いに酒止められないよねという話を、分かち合いをしたら、初めてその人はお酒を止められた。そこから新たなやり方を一緒にやろうということになって。二人のアルコール依存症者が出会ってAAが始まった。1935年、ビルとボブによってAAが設立されました。それが世界中に広まり、そのやり方いいよねってことで、別の依存症にも使われるようになりました。それまで治療は病院とか宗教施設とかでやっていたのですが、そのやり方よりもこの分かち合いのシステムの方が役に立つという事が分かり、集団療法として発達して外部の施設にも移行するようになりました。その流れの中で、日本で初めて依存症治療施設として久里浜アルコール症センターが出来たのが1965年です。その後医療や心理学の領域で、自助グループに定着できない人々に対する治療が考えられたり、完全にやめられない人に対する対応も考えられたり、少しずつ変わってきていますが。
「なぜ精神障害ととらえるか?」依存症は病気なんですが科学者はその理由付けを探さなきゃならない。アルコールが一番の依存物質ですから、それをもとに考えると、体が変わっていくからだだろうと、神経が変わるのではないかと。飲み続けていくとお酒に強くなる、いわゆる「耐性」ができます。もう一つは「離脱」。お酒を止めようとすると、体が震えたり幻覚妄想が出たりする。神経がお酒があるのが当たり前に変化してしまっているからだと考えられます。ところが、覚醒剤には耐性はつきますが身体依存がないので離脱症状もありません。コカインに関しては離脱も耐性もないのです。けれども覚醒剤は再犯率が7~8割以上と高い。使えば刑務所に入れられてしまう非合法薬物、それでも使ってしまう。どう考えても依存しているわけです。考えたら当たり前なのですが、覚醒剤自体が身体依存が無いように作られた薬剤だからです。もともと風邪薬であるアンフェタミンを精製して身体依存をなくしたのが覚醒剤。だから本当は安全だったのです。動物実験では。でも使ってみたらやめられなかった、そういう話です。だからやめられない理由は身体依存ではないのです。ではなぜやめられないのか?それで考えられたのが、「ドーパミンニューロン(脳内報酬系)仮説」です。脳内の報酬系回路が変わってしまうという説です。
しかし最近では心理学の領域から出た「自己治療仮説」の方が重視されています。脳内仮説は証明できない仮説ですが心理学の方は統計的に証明できるものですから。いわゆる不快な感情、抑うつとか怒りとか孤独とか悲哀とか、そういうものがあって、それを逃れるために使っているのではないかという説。何かネガティブなものがあった所をなくす、マイナスからゼロにする行為。これに人間は囚われやすいという事が分かっています。こういうことを可能にするのが依存物質であったり依存行為であったりするからやめにくい。「快楽を求めるよりも辛さを消すためにする行為の方を人は続けやすい」ということです。それを証明するにはいたりませんが、いろいろな依存行為のある人が死にたい気持ち(自殺念慮)をどれくらい持っているかをデータで示したものがあります。病的ギャンブルが62%、アルコール55%、違法薬物で83%とでました。生涯経験率です。一年以内の経験率でみると、自殺念慮にしても自殺企図にしても、大うつ病の人よりも、病的ギャンブルの方が高くでました。もしかしたらこの人たちはもともと辛い気持ちが大きい人たちなのかもしれません。(自殺防止対策としてギャンブル障害が注目された理由)一度マイナスをゼロにする効果を覚えると、どんどん欲が強くなります。辛い気持ちを減らすのが当たり前になってしまいます。クーラーと風鈴の譬えがあります。昔は暑い夏は風鈴だけで過ごしていました。一度クーラーに慣れると風鈴だけでは夏の暑さを耐えられなくなります。暑ければすぐクーラーをつけるようになります。クーラーがないのが当たり前だったのに、それに戻るのがすごく辛い事のように思える。もはや我々は火や道具のない生活には戻れませんね。それが依存症の一つの側面なのです。
「行動をどう変える?」酒を飲む、薬物を使う、ギャンブルをやる、というのは行動です。これをどう減らすか変えるか、これが治療目的となります。ただ「気合だ」ではうまくいかないのは皆さんご存じの通りです。状況分析が必要になります。問題行動が起きる状況を減らすのが一つ。その状況の時に飲酒をしない薬物を使わないというのは難しい。ただ行動しないのではなく、別の行動をしなきゃならない。酒をただ飲まないでずっと寝ている、ではうまくいかないですね。何か行動すれば結果が出てくる。その結果で辛さが消える行動であればいい。新しい行動をしたことで別のメリットがある。それが確実に手に入るようならば、繰り返し行われて、短期的結果が長期的結果につながる。長期的結果を達成するには、目標を達成するとこんないい事があるのだと、自分で思い描くことが必要です。この思い描くことが、案外忘れがちな事です。止める時は、こういう結果が出ますよという事を思い描く必要があります。ダイエットのためのジム通いを考えてみてください。「自分が選択する」ここで一番大切なのは、状況を自分で分析しなければいけないし、結果を自分で感じ取らなければいけない。そのためには誰かがこうやったらいいですよと言ったのではだめなのです。自分で主体的に責任をもって行動してもらう事が必要です。自分の行動を変えることを自分の課題としてやってもらう。仮説を立て→実験→結果→結果の修正→仮説の修正→実験方法の変更としていきます。これが主体的だと、自分のプランが悪いから失敗したとして前進していく可能性があります。これが受け身だと、周りが立てたプランが悪いから失敗したとして前進が乏しいことになります。先回りして行動してしまうと、本人が考える機会を失ってしまうからです。先回りは非常に問題で、規制したり支配したりしようとすると、抜け穴ばかり考えるようになってしまいます。新しい行動を考えるよりも抜け穴探しに走ってしまう。だから出来るだけ自分で考えるようにしてもらう必要があります。この辺は禁酒法の失敗と似た所があります。「新しい行動を作るために必要なこと」は、まず具体的であること。成果を急がない。やる前から決めつけない。出来ることからやってみる。すぐ結果をフィードバックする、褒める事です。褒めまくる。一方で周囲と比較しない。そして新しい行動を作るための居場所がある事も必要です。「どこからがアディクションか」という話しですが、何処からが専門領域かという話ですが、本当はあまりはっきりしていません。依存症という診断自体はプロトコルで作られているのですが、問題行動は、たまにやる→定期的にやる→やり過ぎている→やり過ぎて問題が起きている→アディクションと進んでいきます。軽いうちから問題は出ていて、ある程度介入する事はできます。行動で線引きするよりは、止めたいか止めたくないかでしょう。線引きしない良さがあります。人間の行動は、問題を考える前の状況から、問題に直面して葛藤する状況に移ります。認めればやめるしかない、だから否認することになります。「俺は依存症じゃないよ」とわざわざ言う人は、もう依存症に気づいている証拠です。それから「やっぱり依存症だよね」と受け入れるようになる。「依存症だけど止めるのはどうかな」と葛藤しだす。最後は「止めるしかないな」と思う。止めたい、止めた方がいい、止めたくない、止める必要がない。両方の気持ちがあるのが依存症です。否認は依存症治療を困難にする要素だといわれますが、実は否認は葛藤している時期でもあるので、むしろ介入しやすい。否認と戦わなくても治療は出来るという事です。準備期、実行期、維持期と、人の心は進みます。この辺の両価的心理は、例えば癌にもあります。最近はそうでもなくなりましたが、癌は治らない病気だと言われます。宣告されるとだいたい否認が出てきて、葛藤、受容、と進んでいきます。ですから否認は依存症に限った事ではないですね。
「生きるための技能」話しは少し変わりますが、依存症は辛い気持ちをなくすためだという話をしました。辛くなるのは何が原因でしょうか。人には生まれつき弱さはあります。発達障害とか知的障害とか生まれながらの弱さがある人もいますし、環境によって弱さを、自分はちゃんとやっていけるという自信がつかなくて弱い場合もあります。ある程度うまく行っていたのに途中で過酷なトラウマ体験を得て、逃げなきゃいけないんじゃないかという感じに襲われる場合もあります。何かしらの形で、不安、恐怖、怒り、不満というネガティブな感情をもちます。そこから避けよう、逃げようとする過程で、お酒やギャンブルに走る、依存症という病名をつけられることがあります。強迫性障害に行く人もいますし、過食症と言われる人もいますし、拒食症という出方をする人もいますし。気づかないように怒りまくる人もいます。これを放っておくと、鬱病とか、解離障害とかいった精神疾患になったりします。その意味で精神疾患も依存症もかなり似たところはあり、出方が違うだけともいえます。これを必ずしも悪い物ととらえずに、生きるための技能だととらえる考え方があります。これは「森田療法」です。もともと人間には、生きるために安心を求める気持ちと、完璧に生きたい気持ちがあります。これが過度になると、この二つをちゃんと出来ないという思いで不安や恐怖がうまれます。ちゃんとできなくても何とかなるんだよという気持ちが、育つ過程でできると、出来ない現実をほっといても大丈夫になるんですが。ちゃんとできない現実に対してなんとかしなきゃいけないという気持ちが強くなると、それが怒りに出たり、不安や恐怖を打ち消すために何かしなきゃという思いになります。そのために身を守るためにするのが、一つは「気晴らし」ですね。いわゆるギャンブルとか、過食とか、強迫とか。また「忘れる」こと、酔って忘れる、ラリって忘れる、解離して多重人格になったり、健忘症になったりもします。「問題のすり替え」もあります、体調が悪いことにしたり、借金問題にしたり、暴力問題にしたり。後は「対峙を避ける」問題に向き合うのを止めて引きこもるとか、非行集団に入って一般社会から離れてしまうとか。これらは悪い事ですが、生物としての本能を守るための「生の欲求」と言いますが、ちゃんと生きたい欲求が背景にあると理解します。不思議な事ですが、ちゃんと生きるために、悪いことをしてしまって、ちゃんと生きられないのなら死にたいとして、自殺念慮が出てきてしまうという。依存症の人たちは、ちゃんと生きたい欲求がある人なので、そこを生かしていくのが、依存症の新たな生き方ではないかと思います。そのために役に立つのが、治療だったり、自助グループだったりするわけです。後は失敗して、今までのやり方ではいけないんだと気づく事ができるのです。ですから失敗も必要なことなのだと。これが依存症の難しい所でもあり希望でもあるのかなと思います。
「アディクションになる人の特徴」について。これは埼玉県立精神医療センターの成瀬先生の研究ですが、「1,自分に自信がない。2,人を信じられない。3,本音を言えない。4,見捨てられる不安が強い。5.孤独でさみしい。6.自分を大切にできない。」これはとても分かりやすく暖かい言葉ですね。当院での心理検査の結果でも似たようなことがありまして。まず「ミスへの囚われが強い。」完璧主義の傾向があり恥の意識が強い。「見栄が強くて負けず嫌い。」そのため「本音が言えなくて嘘をついてしまう。」その結果、孤独で寂しい。そこで「正直に話す練習が必要。」特定多数の人に受け入れられる場が必要ということになります。これに関して「ネズミの楽園、ラットパーク」という研究がありまして、依存症について真をついた研究として注目されました。ネズミをマウスピースしかない孤立した環境に入れたのを植民地ネズミと称します。一方チップをたくさん入れた気持ちいい環境に入れたのを楽園ネズミとします。楽園には仲間もたくさんいて遊べるようになっていて社会的な好ましい環境に置くのです。モルヒネ水とふつうの水を両方に置いておき、どちらがモルヒネに依存するかという実験です。すると辛い環境にある植民地ネズミの方がたくさんモルヒネを飲みます。要は劣悪な環境で孤独でいると、薬物摂取が増えてしまうという実験です。その後、植民地ネズミを楽園ネズミに混ぜるという実験をしてみました。すると楽園にまぜられた元植民地ネズミは、いつのまにかモルヒネを使わなくなっていくという結果が得られました。もちろん全然使わないわけではありません。ネズミには禁断症状の知識があるわけではありませんが、それでも減っていった。このことから、ネズミも孤立しているよりも、社会的に受け入れられて集団の中に居る物の方が、依存に陥らないというのが実験が示す所ではないかと考えられます。実は集団療法などでも、治療プログラムそのものよりも、誰かに受け入れられる、失敗した人がたくさんいる事に気づいて、孤独を忘れられるものであれば、効果があるとわかってきました。こういうことを一番やっているのが自助グループであり、ダルクのような回復施設なのです。「分かち合うことの意味」としては、自ら話すことももちろん大切なんですけど、非常に勇気がいります。見栄っ張りで恥の意識が強い人ですから。まずは人の話を聞いて、自分だけではなく、これは言って良い事なんだとわかってもらう。話せなくてもその場に居て聞いてもらうという事が非常に大事になります。この後も家族グループの分かち合いがありますが、自分だけではないんだと思ってほっとするのはとても大切です。
「家族へのアドバイス」ですが、起きている問題を整理する、これは一人で考えすぎず、誰かに相談する事です。また自分自身も疲弊していることを意識して自分自身をケアしましょう。誰かのためにと思うと非常に力がでますが、そこにばかり集中して結果相手を追い詰めてしまったりするものです。自分の問題は自分が解決する、それはアディクトもそうです、ご家族もそうです。最終的な目標は自分の幸せです。自分を大切にして人のための人生にしない事は、とても大切です。人の問題は人の問題として、自分の問題は自分の問題として切り分けて、そういう生き方を背中で見せるというのも大事かなと思います。情報を集めることも大切ですが、治療者になる必要はありません。家族は治療者にはならない方がいいです。最後に、これがとても難しいのですが、アディクト本人の課題と、自分の課題を分ける。自分の生活を最優先にすることが大事だと思います。
文責:伊藤