<2020年9月家族会報告>
9月19日(土)1時半~5時 20名参加(16家族) 初参加3名。
講師:成瀬メンタルクリニック院長 佐藤拓先生
「強迫性障害への治療対応と、ギャンブル障害支援の関連」
こちらのダルクで私も2回ほど話させていただいていますが、昨年までの話は同じような内容でしたが今年は少し変えてみます。聞きなれない内容かもしれませんが「強迫性障害」という病気があります。用語として「強迫的ギャンブル」という言葉が自助グループで使われてきまして、「のめりこみ」とか「やめられない」事について言われる言葉ですが、「強迫性障害」は関連している部分もあり、ない部分もあります。今日は病気としての問題ではなく、クリニックでのギャンブル障害の支援に関して参考になることもあるのかなと考えたので、初めてでわかりにくい所もあるかもしれませんが、お付き合いください。
ギャンブル障害についていろいろな所でお話させていただくことはあるのですが、意外と自助グループの方からは「医者が依存症を自分のところで治療できるのだと、誤解を招きかねない表現はしないほうがいい」というご意見を聞くことがあります。たしかにそうなんですね、回復の主役はリハビリ施設であると私自身は思っています。HPを見まして、うちのクリニックでは依存症治療はやっていませんと言ったほうがいいという方もいまして、あくまでもクリニックはお手伝いに過ぎないと思います。
ギャンブル障害の支援の難しさですが、リハビリ施設につながるまでには何かしらの底つき体験といいますか、このままじゃまずいという思いが必要です。問題に直面化させるのは一定の効果があると思います。いわゆる「反省と後悔」でつながっている人が多いと思います。そういう思いを持った人が、これからどのように自分を仕向けて行こうと思うかというと、「我慢する」ということになります。「これまでいろいろな人に迷惑かけてきました。これからは好きな嗜癖行動を我慢してやっていきたいと思います。」これは真剣に思っているわけです。本気だと思いますが、これではまた嗜癖行動が再開してしまうということが、多く見受けられます。我慢では続きません、限界があるのです。反省と後悔から本来の自分の自信に切り替わる。それがどうやってもたらされるのかなあと思います。回復施設につながることでもたらされるものですが、自己肯定感を回復させない方向に、周りの人がかかわってしまうことが多いのではないかと。
私はクリニックに着任したときに、前任の北里大学の先輩から引きついたわけですけれど、精神保健福祉センター長をされています宍倉先生でしたが、実はこの方が強迫性障害の専門の方でした。私は大学病院で一般的な精神科治療を行っていた時に、おそらく嗜癖問題と強迫性障害の治療対応が最もピンとこなかった治療でした。私は医局が北里大学ですけれど、北里は薬物療法が主体の医局でお薬の使い方には精通された先生方が多いのですけれど、嗜癖や強迫性の問題はお薬だけで解決する問題ではないので、どう対応したらよいか学ぶ機会そのものがなかったと思います。
強迫性障害がどういう病気かといいますと、頭の中に「強迫観念」という考え方が浮かんで来ます。例えば、「手が汚れているという気がする」。手が汚いという感じがするという考えです。実際汚れていたら洗えばいいんです。きれいになります。でも汚いような感じがするという考えは、洗っても消えません。5分前に洗いました、もう汚い感じがする。ちょっとおかしいですね。強迫観念を「強迫行為」という行動で生じた不安を打ち消そうとするのです。強迫観念を打ち消す行動を強迫行為といいます。例えば、「鍵をかけ忘れてしまったような気がする」という強迫観念。「火の元の確認をしなかったような気がする」というもの。これ1回や2回ならいいけど、10回20回となると大変です。そうなると何度でも鍵や火の元の確認をしなければならなくて、生活がおかしくなります。外出できなくなります。確認行為という強迫行為もあります。家族に「私は今こういう状況で大丈夫だよね」と確認するのです。「手が汚れてないよね」とか。1回や2回ならいいけど、10回20回30回と確認されると家族はどう感じるでしょうか。もういい加減にしてくれとなります。なんでそうなるのか。「自分自身でもそれがばかばかしい行動であると認識していながら、それを止めることができない」。「そんなに手を洗う必要はないとわかっています、でもやめられないんです。」こういう強迫症状を持つ人に対してはSSRIという抗うつ剤を使うと良くなると本には書いてあります。でも私の経験ではそれで治った人はほとんど見たことがないです。診察室でも私に対して確認行為をする人もいますし、本当に重くなると家から出られなくて引きこもって生きているのがやっと、みたいな人もいます。
これに対する治療として考えられてきたのが、認知行動療法と、自己肯定感を上げていくことです。認知行動療法は難しく聞こえるかもしれませんが、極めて簡単です。強迫観念があるとして、その不安を打ち消すための強迫行動をしてはならない。手が汚いという感じだけだったら洗わない。子供でも分かるようなやり方です。「行き過ぎた強迫行為は自分自身も家族も苦しいほうへ追い詰めてしまうので、それはしないほうがいいよね」ということをまず認識するということです。「強迫行為をする方もしない方も、苦しいには違いないが、どちらかといえばしない方がいいよね」と。この認知行動療法でよくなる人も中にはいますが、だいたい患者さんの反応は決まっています。理解していただきましたね、では次回外来まで家で実施してみてくださいというと、次の外来で患者さんの第一声は大体決まっています。「全然だめでした」。「言われたとおりに行為を抑えようとするんですが、怖くて怖くて。手が腐って死ぬんじゃないかと思うので、結局洗っちゃいました」となるんです。必ずそうなんです、それができるようなら、そもそも外来に来る必要はない。そこでもう一つ大事なのは、自己肯定感の回復、そこがポイントです。
強迫性障害を持つ方は、自分に対する自信が失われていることが多い。繰り返し起こる強迫行為で普通の人なら出来ることができない、その結果落ち込むのか。それとも落ち込むようなことが起きてこの症状が出るのか。いずれにしろ自分に対する自信がない。自分はダメだと思っている。経験によると何となくでも自分の中で自信ができてくると、この症状は緩和するのです。「最近、こんな感じでも自分はいいのかなと思いますよ」という人は良くなってきます。そこで自己肯定感を軸に治療プランを立てればいいのかなと思います。要するに自信をもって生活することが大事ですよとお伝えします。でも「人様に自慢できることなんて、これまでになかったので、自信を持てと言われても無理です」という方がほとんどですね。自己肯定感の回復ってそんなに難しいことでしょうか。自己肯定感の高い人って立派な人ではないです。100のうち97くらいできているのに残りの3ができていないことに、全然ダメですという人は自己肯定感が低いです。目的意識が高くて自分を追い込んで頑張ろうとしている人、こういう人は自己肯定感が低いのです。3出来てないことに着目して、自分には存在価値がないと言い出しかねない。その逆もありますね、100のうち3しかできてないのに、自分は出来ていると思っちゃう。あまり立派な人に見えませんね。もちょっと自分を見たほうがいいんじゃないのと言いたくなりますね。でもそれは、自己肯定感は高い人なのですよ。そんなに難しく見えないでしょ、自信を取り戻すことって、そんなに難しくはないんです。自己肯定感というと難しいように聞こえる、でも日常生活の中でできていること、やれていることを広げて見られる人は自己肯定感が高くなるんですよ。その逆に自分が出来てないことを自分の中で増幅する人は、自己肯定感が低下するんですね。
これを考える時に思い出す言葉があります。有森裕子さんという方が、オリンピックで金メダルと銀メダルを獲得しましたが、2回目にメダルを獲得したときに発した言葉が有名になりました。「生まれて初めて自分で自分をほめてあげたいと思った」という。あれは非常によくない言葉だと思いますね。(笑)私たちの生活でメダルを2回とることはほとんどないからです。2回メダルを取った事しか褒められないのなら、自己肯定感上げようがないです。365日のうち364日はとるに足らない日常で構成されているわけですけど、一日くらいは素晴らしい日があるとしても、取るに足らない日常を意味のない価値のないものとしてとらえていくか、ちょっとずつ自己肯定のために積み重ねるものとしてとらえているかで、大きく変わると思うんです。うちのクリニックにいらっしゃる方は来る段階で、何か問題があると思って来られます。強制入院ではないから、自分の意志で来られる方が多いのですが。対人関係の問題は、自分の問題か相手の問題かどちらかによって生じます。でも相手の問題も自分の責任と感じている人は、いろんなことで行き詰ると思います。どう考えても相手の方がおかしな行動とっていると思える場合でも、なぜか自分を変えようとか治療を受けるのは自分だとか、考えてこられる方が多い。そこを見直す必要があるのかなと思いますね。
日常を肯定するという作業が必要になってきます。といってもイメージしにくいと思います。例えば今日も朝早くきちんと起きました。ごはん食べてきました。調子悪い中でこれだけ頑張りました。肯定できている方はすごいと思います。あまりできていないんじゃないかと思います。日本人がそうなのかわかりませんが、すごく頑張ったことは褒めるんですよ、死に物狂いで頑張ったとか。ボロボロになるまで頑張ったとか、怪我をしても頑張ったとか。そういう時は親もほめる、学校の先生もほめる、友達もほめてくれる。でも朝起きましたなんてことは、あまり褒めないですね。でもそれを褒めるのが大切だと思います。日常生活の自己肯定をコツコツ貯金みたいにためて、ゼロじゃない程度にいれておいて。積み重ねる自己肯定はバカにならないんじゃないかと思います。それを患者さんに伝えます。自分を褒めるってなかなか難しいですねと言われたり、正直ピンと来ませんとか言われながらも、私もしつこくしつこく言って、あなたは取り上げませんけどこういう所いいですよとか、今日はこれだけできたからステーキでも食べてお祝いしましょうとか、ひたすらやっていくうちに少しずつ回復していく流れになるんですね。
認知行動療法を振り返ってみて、頭に浮かんだ強迫観念を強迫行動で消そうとしてはいけないということを意識したとき、自己肯定感の向上をどう実施するか。手が汚いと思ったとする。エスカレートするんですよ、1回だけ洗うんじゃなく、5回洗う、10回洗う、20回洗うと。手を洗う範囲も拡大します、肘まで洗う、腕まで洗う、そのうちお風呂に入るまで。洗うものも石鹸だ、次亜塩素酸だ、アルコールだと。際限なく広がってそのうち何のために生きてるのかわからなくなります。認知行動療法では、とりあえずよくなったことだけ、こじつけでいいからここまで出来たと認識するわけですよ。今まで1時間洗っていた人が59分で済みました。あるいは手洗い行動を2分だけ我慢できたとか。たいしたことには見えないけど、あえて良くなったと認識しましょう。そういうことをやっていると、こういう形で私は我慢できたから私はいい方向に進んでいると。この蓄積が少しずつ効いてくる、そんなことがよく起きます。だまされたと思ってやって下さいと言ってやっていくと、だんだん回復していくことが多いです。
そもそも強迫観念がどうして発生するか。私の推論ですが、何か別のことに対する不安なんです。私の人生これから大丈夫だろうかとか。これは考えても意味がないです。不安は常にあります。でも意識してもあまり意味ないから意識しないようにします。その結果不安が形を変えて、手が汚いという形で出てくる。見方を変えれば、ひたすら手を洗っている人はどう生きるかという不安のもとを永遠に見つけることはない。だからその行動はやめなきゃいけない。でもそう考えるとその人の行動もわからない行動でもない。強迫手洗い行動は抑えなきゃいけないと認識しましたけれど、全く意味がないわけではないのですね。一日5時間洗っていた人は、手はボロボロ水道代は膨大、大変なことになりますけど、ひょっとしたら将来の不安がちょっとだけ減るかもしれないですよね。お百度参りという行動がありますね、神社の石段を何度も上り下りする。あれは極めて強迫障害っぽいですね。(笑)でもあれは文化的行動として認識されていて、周囲は受験か何かで大変なんだろなって思います。お百度参りは認められていて、手洗い強迫は精神科で治療しなければいけないか、違和感がありますね。認知行動療法で回数を減らしたり時間を減らしたりしましょうと設定して、うまくいきましたね、認知行動療法できましたねと自信をつける。逆に抑えることができないで必死になって手を洗っている人は、不安を抑えることのできない若干不器用な人。でも自分の中で心のバランスをとるために、なんとけなげな行動をしているのかと思って、それはそれで、自己肯定感をあげてほしいと思いますね。どっちにしても自己肯定感はあげてほしいです。
でも、だいたい皆さん逆をやっています。皆さん心は有森裕子さんみたい、死に物狂いでボロボロになった時しか自分を褒められない人が多いんですよ。何もない日常を褒めるに値しないという感覚なんでしょうね。ただ自分を追い込むという戦略は、短期的には有効なんですよ。この2か月間死に物狂いで頑張って下さいという時にはいい結果につながります。でも長期戦略で考えた時には。ずっと一生続けるんでしょうか、死に物狂いのボロボロを。どこかにしわ寄せがいきそうですね。長期的にはやはり自分に優しくやっていった方がいいかなと思いますね。バドミントンの選手がギャンブル問題を起こしましたけど。スポーツの成功者なり芸能界の成功者とかは、短期戦略で自分を追い込んだ時しか成功できない人の危うさがあるんだろうなと。すごく成功した自分しか褒められないけど、スポーツで常に成功し続けるってありえないですよね。圧倒的多数はふつうの日常。そこに対する肯定がないと、自信がない状態がついてまわるんだろうなと。成功した人がリスクが高いとはいわないです。日常の肯定が出来たうえでの成功ならこれは素晴らしい。日常の肯定がない所に起こるたまたまの成功は、逆に身を亡ぼすこともありうるのだなと。切り替えができる人はいいですね。
普段の日常を褒められている人は、例えば会社で上司からすごく怒られたとします。この上司大丈夫かなと思うわけです。でも自分の日常を否定してゼロにしている人は、やっぱり自分はダメなんだと思う。そこはすごく大事です。大人になると人は人をほめませんよね。自分のことで一杯で人を褒める余裕もない。子供は何やっても褒められたかもしれない、大人は何かもらえそう時しか人を褒めませんよね。社会人として大事なことは恐らく日常のふうつの生活を褒めることだと思います。だいたい皆さん褒めません、本人も自分はダメだと思ってしまう。ご家族もそういうことが多いです。強迫症状にはまっている人を見て、ほらまたやってる。やってる本人も家族に負担をかけていると思いながらやめられない。自己肯定が下がるわけです。
こういうメカニズムを参照しても、ご家族全員がわかって下さるわけではないです。そもそもクリニックに来ないご家族も多いですから。それならば自分で自分を褒めるしかないです。でももし、ご家族もそれに協力して下さったらありがたいですね。基本的に自分を褒めることに関しては自分でやらなければなりません。それに加えて周囲からの支援があればいいことだと思います。でも難しいんでしょうね。昔は日本人はご先祖様に手を合わせて「ありがとうございましたと」言う習慣がありましたが、あれはそれに近いと思います。
嗜癖問題に戻りますけど、難しいのは相手の行動を、嗜癖行動ないし強迫行動を言うのは、指摘するのは、まちがいなく家族として心配しているからです。見方によってはすごく当たり前な行動ですよね。だから難しい。相手の応援団であるということを、本人は圧力に感じるわけですよ、ご家族の行動に。急に優しくなったり。圧力をかけないで、相手の自己肯定をあげる応援団としてどのようにかかわれるか。これはなかなか難しいですね。今日の私の話だけでわかろうなんて簡単なものではないです。家族会とか自助グループの家族の集まりとか、そういう所で継続的に学び続けていくことが、出来たら素晴らしいと思います。
最後にこれはおまけですが、前回もお話ししましたが、うちのクリニックで希望する方にやっている、ウェクスラー式知能検査というものがあります。IQを測るものですが、言語能力、論理的思考と、記憶力と、作業処理スピードが、同世代の平均的な人と比べてどうかが測れます。私は出てきた数値をもとにこの方がどんなことにリスクを感じるかを考えて、そこを軸に治療を考えるのですが。この中で論理的思考力は、難しいんです。論理的思考力が高い人は高い人なりの負担を感じていて、低い人は低い人なりの負担がある。論理的思考力が高いと自分自身の考えに自信があるわけですが、自分の正しさを相手に伝えるのに苦労するわけです。論理的思考力は高くて言語能力が低かったりすると、世の中はいつもこうだからと怒りに満ちていたりします。論理的思考力が低いと問題解決能力が乏しいので、問題にあたってどう打開していいかわからないということになります。論理的思考力が高い人、低い人、それぞれに難しさがあります。低い人は本人の自主性に任せるより周りで援助した方がうまくいくと思います。でも高い人に対して管理的に接しようとすると、その人にはとてもストレスに感じられます。自分でできることを周りの人に任せなきゃならないのは、ストレスですよ。低い人に関しては管理的にかかわることが時に支配されていると感じられることがある。いいように扱われているようで不満に感じるとか、そういう場合もあるのです。それが暴発することもあります。他者の援助を受けることが自分にとって心地いいことだと自覚される場合はいいのですが。そういう場合は援助職の方に頼んだりします。ですから依存症の治療はクリニックだけではすむことではないのです。
「強迫性障害への治療対応と、ギャンブル障害支援の関連」ということでお話しました。今日の話で理解しただけではだめですね、実感に変えていただきければと思います。
文責:伊藤