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9月家族会報告

10月10日の体育の日は、相模原スポーツフェスティバルで相模原ダルクから琉球太鼓を披露することになっています(時間は14:10から)。雨天中止ですが、皆さんと一緒に行きたいので、改めて案内を送付します。JR相模原線の「原当麻」駅が最寄駅となります。

今回の家族会には17家族・20名、2名が初めて参加されました。

 【横浜ダルク: 山田貴志 代表(45歳)】

横浜ダルクは、地域との関係が深く、ボランティア活動しながら地域と密着している。来月から減って20~25名がリハビリする予定。職員が9名であって、常勤が6名で非常勤3名であり、みんなでコミュニケーションを図り、試行錯誤しながら運営している。薬物を止めたのは30歳で、始めたのが16歳からなのでやっている期間が15年、また止めている期間が15年になるのでちょうど節目の年になる。今も何も変わってなくまだまだ未熟もので学ぶことが多い。家族構成は父親と母親、また兄と双子の弟がいる5人家族だった。父親が3年前に亡くなった。母親は、現在、精神病院に入院している。最近面会したのだが、私を罵るだけでなく、孫を連れて行ったのに会うことなく、私に汚い言葉を投げかけた。父親が亡くなってからというもの驚くくらいに容姿が妖怪みたいに変わってしまった。このときばかりは、母親に対して首を絞めてやろうかと本当に思った。夕方に転寝していると、公園にあるスピーカーから「からすといっしょに帰りましょう・・・」、という歌が流れてきた。そのとき、ふと、小学校時代の家族団らんの姿が思い起こされた。小学生の頃はこの家族との光景がずーっと続くと思っていた。このとき、母親を抱きしめてやろうと思った。母親は病気であって、好きでそうなった訳でもないのにと感じた。一日一日は大切だと言っておきながら、現実は大変だということを痛感する。幼少期は父親が公務員・官僚だったこともあり、比較的裕福な家庭に育った。父親は融通が利かない分、母親が家族に献身的であった。世界はウチの家族を中心に回っていると思っていた。幼少期の頃、父親と話す機会があまり無かった。父親と二人きりになるのが苦痛であり、どうしてよいかわからなかった。父親は仕事をしてお金を稼ぐだけであり、仕事をすることが、子育てであった。母親は、家のなかのことをする、父親は外で働くことだけで、何に対しても拘りがなく、趣味を持っていなかった。定年後は、マージャンゲームと録画することに夢中の父だった。父親の仕事の関係で、生まれてからとても転勤が多かった。生まれは岐阜、京都に移り四日市、そして愛知の小牧に転勤した。小学校に入学したら、インドネシアのバンドンに海外転勤した。首都のジャカルタから北へ車で3時間くらいの所だった。そこには日本人が住んでいた。そこでバンドン日本語補習学校を立ち上げ、小1から小6までが一緒に授業をしていた。先生はそれぞれの家族の母親が代わってしていた。ほとんどが遊びであった。それから、5年生の時、日本に戻ってきた。日本の授業についていけず内容を全く理解できなく、塾通いまでしたが、成績があがることはなかった。学校では、自分と弟だけが帰国子女であり最初は珍しがられたが、勉強ができないことからのいじめと帰国子女に対する攻撃(いじめ)であった。このときからコンプレックスを感じ始めた。中学生時代の3年間は、フィリピンの首都マニラでマニラ日本人学校に通った。学校は優秀な子が多い高いレベルにあり、自分の成績順位はいつも底辺でびりっけつの下から1か2番目であった。双子の弟へのコンプレックスもあり、彼の成績と自分の成績とを比較するために夜な夜な弟の部屋まで忍び込んで順位を確認したこともある。自分自身を卑屈および惨めに思った3年間であった。高校生になったら、また父親の転勤でタイ国のバンコックに移った。学校は、当時、日本人学校がなくインターナショナルスクールに入学したが、二十歳で卒業したので5年間通った。最初の2年間は、母国語が英語でない生徒が集まった予備クラスであったので、とても楽しい学校生活を送った。予備クラスからレギュラークラスになった初日の思いでは忘れられない。また、いきなり訳のわからない授業であった。次の日から学校に行きたくないと思うようになった。色々な恐怖心で満ちていた。3年間どうやって過ごしていけばいいのかと感じていたときに、クスリが登場した。2種類の薬物であり、ひとつは「咳止め」、もうひとつは「マリファナ」だった。かつての予備クラスにいたラオス人の友人がクスリを持ってきた。これが私にとって最初のクスリとの出会いだった。クスリが自分の生きづらさの全てを解消してくれた。緊張も無くえるし、集中できてしまうし、これはいいやと心から感じた。勉強も楽しく集中できてしまうことから、魔法のようなものであり、クスリのお陰で本当に助かった。週末にはホテルの一室や繁華街の遊び場でマリファナを吸ったりしていた。2年後に父親と母親が突然帰国してしまった。帰国子女で大学を受ける方がメリットがあるので残ることになった。双子の弟と一緒に残ることになり、父親から日本円で何百万、何千万円の残高があるATMカードをわたされた。それからはやりたい放題であった。 弟と一緒にプレハブみたいなところに住んだ。クスリには弟と二人で拍車が掛かった。弟はマリファナでタイ警察に捕まってしまったのをきっかけに、薬物には一切手を出さなくなった。私はさらに悪化し、学校までクスリを持ち込むようになった。薬のお陰で勉強に集中でき、勇気をもらえた。また細かい作業が必要になる紙芝居を作って、それが学校で表彰されたのもクスリのお陰だった。その後、無事に卒業したが、父親から3年間全く連絡も登場もなかった。母親からは半年に1度連絡があり、卒業式にきてくれた。両親からおかしいから戻るように言われた、そのときにはクスリは止められなくなっており、自分の部屋のドアの隙間にガムテープをはって、光が入ってこないようにし、トイレにも出れなくなって、部屋にある何本ものペットボトルで用を足していた。父親にクスリを使っている自分の現状を話した。父親はトイレで便器に顔を突っ込んで吐きながら泣いていたのを見て、そのときはクスリのせいなのか、父親の姿が悲しいより滑稽にしか思えなかった。今になると、父親の人間らしい最初で最後の姿だった。ダルクに入寮後に両親が揃って家族会に来てくれたが、途中で母親が来なくなっても、父親だけが来ていた。暑い日でも寒い日でも、いつものバスの後部座席に座って、毎回家族会に参加してくれてた。ダルクに繋がる前にコーヒーショップでアルバイトをしていた。父親がたまに一人でコーヒーを飲みに来てくれていたのを死んでから聞かされた。コーヒーでなく、自分を見に来てくれたことを。死ぬ間際に5つ残されたが、そのうちの3つが自分のことであり、他は母親のこと、また父親の部下のことだった。とにかく、「仕事=子育て」の父親であった。

【川崎ダルク: 岡崎重人 代表(35歳)】

川崎ダルクが設立されて12年が経過する。今現在、入寮している人が4名、通所している人は男性が0名であり、女性が11名いる。今から2年前に女性の施設を開設することで、女性だけに通いのみで開放している。設立された当初人数が少なく、一階が工場で二階の畳部屋をぶち抜いて12畳が二間あった。シャワー室がない状態で、毎晩近くの銭湯に行っていた。そこに人が徐々に増えていって、11名くらいになった。新しい場所を借りたのが、現在、川崎ダルクセカンドハウスになっている。思春期の頃は自分で表現することができなかった。それが今でも短所になっている。現在、35歳になるが、6日後に誕生日を迎え36歳になろうとしている。家族は、父と母、3兄弟の末っ子で5人家族であった。父親は鉱山で働いていた。幼少期2歳まで福岡県の大牟田にいた。その後、北海道の札幌に引っ越した。お母さんとお母さんの友達に可愛がられた。この後、小学校に入る1年前から東京の大田区に住んだ。父親は普段のときとアルコールが入ったときの違いが明白に表れる人であった。日曜日になるたびにアルコールの匂いがする家だった。母親に対する暴言が酷く、またテレビ局にもよく電話をした。大きな声で怒鳴るので、いつもいやだった。小学4年生になると、日曜日に部活動をしていたし、終わったらそのまま友達の家に遊びに行って家にいないようにしていた。酒癖が悪いことを知られたくなかったので、家に人を招きいれることをしたくなかった。小学5年で暴力を振るったりしていじめをするようになった。なかなか行動をやめられなかった。また、父親の財布からお金を盗むことをし、最初は小さな金額であったが、次第に大きな金額になっていった。5千円か1万円を盗んだときに、バレテしまった。正直に盗んだとは言わなかった。中学生のときは野球部とサッカー部を掛け持ちして、家にほとんどいなかった。父親ともあまり話す機会がなかったし、母親も忙しそうにしていた。家族のなかであまり話し合いをしようとしなかった。受験勉強する時期になって、悪い仲間と付き合いだし夜遊びをしていた。中学3年生の夏にタバコを吸い、お酒を飲むようになった。塾にも通ってたし、家庭教師をつけて貰っていたので、何とか普通科の高校に合格した。受験のときに友人と一緒に喝上げしに行って(住んでいる地域が喝上げが盛んな場所であった)、警察に捕まってしまった。幸いにも恐喝された生徒の学校の校長先生が将来がある子供達なので許すよう説得してくれたこともあり、家庭裁判所の裁判止まりになり、きつく叱られただけで済んだ。いつもやってはいけない事を教えてくれたのが母親であったが、父親はそういうことはなかった。家族の中では煙たい存在であった。クスリを使うようになったのは16歳で、でもそのときはすぐに止まった。父親が北海道に単身で転勤になったが、飲酒運転で勤めていた会社を首になってしまい、住んでいる社宅から出るはめになった。当時、父親のアルコール依存症を治療するための情報が一切なかった。そのため、母親はいつも怒っており、誓約書を書かせるのだが、すぐにまた飲んでしまう繰り返しであった。一浪して大学には合格したが、大学受験をして不合格になって落ち込んでいた時期に、クスリと出会ってしまう。最初は勧められて断りもしたが、1回くらいなら大丈夫だろうとクスリを使った。使ったら、悶々としていた心がスッキリし、全てを解決してくれたような気分になった。どんどん薬物の量が増えていった。教科書代や飲みに行くとせびって、クスリを購入していた。母親がアメリカに旅行するために始めた5百円貯金からも盗んでクスリを購入していた。それから、薬物の種類も変わって、大麻から始まりMDMA、マッシュルームやコカインまでやったが、家族が何かおかしいのに気付き、何とかしければいけないとなり、おばさんや警察と話をしたりした。そこでコカインが悪いということになり、大麻だけを使い続けることになった。ひとりで住み、働きながら大麻をやった。北海道で自生していた大麻を刈り取り、友人に売っていた。その友人が警察に捕まり、自分が今度捕まるのではないかという恐怖心に苛まれた。一方、友人はこの機に止めた。しかし、自分は止められずにひとりでやり続けた。最終的には、家族にSOSをだして家に戻ることになった。家に帰ってからは、長男がダルクのことを調べてくれて、日本ダルクを通じて沖縄ダルクに入寮した。ダルクで一ヶ月半止められたのだから、いつでも止められる、もう大丈夫だと勝手に思い込み、ダルクを飛び出した。結果は、お金を一銭も持っていないことから、置き引きして東京に戻った。どうしようもなくなり、川崎ダルクに入寮した。クリーンが1年経過したときに祖母が亡くなり、さらに、同じ時期に母親の癌が転移・再発し、余命3ヶ月ないと診断された。できるだけ、お見舞いにも行かせてもらい、最後に看取ることができた。それから、5年後に父親が亡くなった。父親は、ダルクに入った頃から酒をほとんど止めた。12ステップの埋め合せを両親に本当にやってあげられたのか感じる。今もクスリを止めて12年経つが、薬物への執着心はなくなった。人間的に自分の感情が欝っぽくなるときがあるが、こういったことを感じられるのはクスリを止めたからだと思う。薬物をやっていたときは、そんなことすら感じなかった。NAという自助グループの中で役割(サービス)を通して、色々な人達に会え、話ができたりしたことが、とても良かったなと感じた。

以上      世話人:広瀬 (代 渡邊)