<2020年8月家族会報告>

8月15日(土)1時半~4時 9名参加(7家族)

講師:相模原ダルク代表 田中秀泰  体験談:スタッフ2名。卒業生1名。

 

代表の田中です。今日は厚労省の事業で薬家連から群馬ダルクの施設長をお迎えする予定でしたが、コロナ対策で来られなくなりまして、急遽私がやることになりました。「薬家連」という団体がありますが、「全国薬物依存症家族会連合会」という日本全国をカバーする団体で茨城ダルクの岩井さんがリーダーになっています。そこで家族の12ステップというのを使っています。僕ら依存症者も12ステップを使いますが、それを家族にあてはめたものです。(ディスプレイに表示)今日はステップ1と2のお話をしようと思います。

 

ステップ1「私たちは薬物依存症に対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた。」依存症に対してコントロールが効かなくなった、無力である、生きていくこともどうしようもなくなったと、降参するステップなんですけど。無力であることを認めたと、しっかり書いてあるんですね。ちなみにステップ2は「信じるようになった。」とややおぼろげな感じがします。

ステップ1では会社をやめたとか病院に入院したとか、生活が破たんして降参したと言う感じをはっきり言っています。この「どうにもならなくなった」とはどういうことか。今ジョー君がお盆を両手に持っています。ここに入る前の子っていっぱい物をもっているんですね。僕がこれが回復だよと差し出したとします。これを受け取るにはどうする?お盆を置くしかないですね。お盆とは何かの先生だったり、奥さんだったり、ヤクザの親分だったり、薬がたくさんある家かもしれない。ここに来る時点でほとほと困っているにもかかわらず、持ち続けていて、そのままでは回復をうけとれません。それを自分で置いてもらわなければ。親が取り上げるんではなく。その置き方もすぐ取り戻せる近くじゃなくて、遠くに手放さなければ、新たに回復を受け取ることはできません。親が子供を学校に行かせる時は、先生にうちの子は何が得意だから何が苦手だから、こうしてくれなんて言いませんね。学校にいる時間のことは学校におまかせします。

ステップ2の「自分より偉大な力を信じるようになった。」これは「ようになった」でいいんです。僕はもともと唯物的で宗教や信心には縁のない人だったんですが、この病気になって治せる確証なんてないですよね。確証がないものを信じるのが、本当の信じることだと言っているんですね。どうしたら信じられるか、それにはすごく力が必要なんですね。「解釈力」だと思っているんですけど。ここに来た時はみんな挫折してどん底です。僕らはここで2年なり3年なりプログラムをやっていると、これは自分を育ててくれるチャンスなんだよと解釈します。自分が失敗した時に、会社が悪いんだとかコロナという感染症が悪いんだとか不景気が悪いんだと思うか、それとも別の解釈をするか。例えば父親に虐待されて育ったとします。あんな親だったからダメなんだと取るか、あんな親だからたくましくなれたんだと取るか、あんな親でも優しい面もあったんだ愛してくれたんだと取るか。その解釈によって、目の前に見える景色が変わってきます。行動も全然変わってきます。そんな奇跡を僕や仲間は感じているんです。少しずつ「解釈力」をつけていきます。ダルクの反対運動のことも、コロナ感染の危機のことも、よしこれをなんとか地域に根差す力にかえて行こうと思う時に、変ってきました。人生は何が起こったかよりも、起こったことをどう解釈するかですね。息子さんや娘さんや旦那さんが、いい時ならいくらでも家族会に来られますよ。ただ悪くなった時、来にくいと思います。でも息子なり娘なり、依存症者が回復すると希望をもつ家族は、続けることができます。

 

スタッフの体験談2名。

卒業生の体験談1名。

 

なかなかダルクに息子さん娘さん、つながらないじゃないですか。本人も俺の行く所じゃないよと反発しますよね。彼の場合も一晩でいいからと必死で引き留めて、人数も10人いませんでしたから僕も彼とたっぷり向き合えました。食ってゲームばかりしてた子だけど、彼がもう大丈夫だと思った瞬間があってね。とにかくどんな依存症でも一日一日いれば、必ず変わると言う確信はあります。それは僕が変わったから。変わる中でもポイントがあります。彼の場合1年たち2年たち、スタッフになった時、自分のことしか考えなかった人が、全部の時間を仲間のために使うようになる。一方で早く社会復帰したいわけですよ。頭のいい人ならいい人ほど早く出たいんですよ。お酒も薬も止まってるから。そのころは自分のことしか考えられません。人間の豪ですよね、彼がある寮の寮長していた時、一人の寮生が万引きをしたんです。万引きの依存症だったんです。ホームセンターかどこかで捕まってその報告をしに帰ってきた時、彼が「済みませんでした」と謝るんです。「僕の責任です」というんですね。いや酒を飲むのも万引きするのも病気だし面倒見切れないよな、と言っても「僕のせいです」と泣きながらいうんです。その姿を見たとき、この「解釈力」ですよね。自分のせいだと引き受ける力。いや僕らはいろいろに解釈できます、家族が悪いから、子供が悪いから、あいつがいなかったら、と言ってきました。そうじゃなくて自分の責任ですと引き受ける力。生きていれば困難や悪いことが起こります。それを一つ一つ自分の責任として受け入れる。「引き受け」といいます。すると変わってきます。例えばこの病気は息子や娘の病気だけど、親の私もこれを引き受けると。なかなかできないことですが、それをしたら、息子や娘は変わらないけど、親は楽になるんです、どんどん。

彼がそのように責任を引きうけてくれた、嬉しかったですね。寮長として責任を感じてくれた、それは薬が止まるより嬉しかったですね。卒業してからも、「自己中心的です」と言える場所、「仕事はきついです、ダルクにいたころの方が楽でした」と言える場所。それが必要ですよね。そういう卒業生を作りたくなります。スタッフの話にもありましたが、出たい出たいと言ううちはまだまだ。居ればいるほど居たくなる。まだ居たいと思う時は出る時だねと。それは彼が能力あるからとか、スリップした子が悪いとか、そういうことではない。ちょっとした差で、彼だって刑務所行ったかもしれない。自分も刑務所行ったかもしれない。ここに「解釈力」とか「信じる」とかいったけど、神様が動いていて、挫折や困難を与えてくれて、成長させてくれるんです。薬が止まるとか酒が止まるとかは後からついてくることなんです。

 

文責:伊藤