<1月家族会報告>

 

栃木ダルク アウトリーチ部長 栃原 晋太郎氏

 

【前半】

栃木ダルクで考える家族支援をどういうところに位置付けていて、どういう体制でやっているかを紹介したいのと、自分はダルクの職員なので自分自身が当事者である。自分自身の回復と最近の活動、またメンバーについてもお話したい。

現在、43歳になった。20代が薬漬けであった。幼少期から普通の家に育った。

中学・高校も格好だけの不良少年で、気が小さいし、そんなに悪いこともできなかった。

格好良いことが優先された時代であって、大学を中退してから薬を使い始めた。始めた経緯は、ここに出席されているご家族のケースと一緒である。誘われたり、断り続ける自分が格好悪かったり、薬物に興味があったりで、1回だけやってみようかとおもい嵌ってしまったようだ。そこからのプロセスも変わりはなく、絶好調に使えたし、うまくコントロールもできていた。会社でも出世していたし、自分で気が付かないうちに、薬物の優先順位が少しづつ上がっていった感じだった。妻のことも、娘のことも当時大好きだったが、やはり大事なものが大事に出来なくなっていった。気付いた頃には自分では薬を止められなかった。借金も止められなかった。それから、ダルクに辿り着いたのが13年前だった。全然、薬を止めたくなかったし、止める気もなかった。ダルクでも止められなかった。施設のなかで毎日ブロンを使っていた。隠れてお酒を飲んでいた。みんなが病院から貰ってくる処方薬を1錠ずつ出して貰い飲んでいた。家族からダルクに入ってくれと催促され、生活もままなくなってき、仕方なくなくダルクに入寮した。刺激のない人生に魅力を感じなかったし、自分の人生は一回限りなので、今エンジョイできればそれでよく、薬をやりながら死ねるなら本望だと思っていた。全く回復しようとはしなかった。施設を飛び出し2週間くらい浮浪者をした。そのときに、食べていけない、誰からも相手にされない、自分を大好きなはずだった母親が泣きながらもお金をくれないし、家に入れてくれなかった。13年前は、家族会もスパルタだった。突放し、絶縁みたいなものを推奨されていた。あまりにもヒモジイ、寂しい、孤独が自分にとってきつかった。生まれて初めて、このまま死んでしまうと格好が悪いので、やり直せるならやり直したいなあ、と思った。このときの比較基準も格好良いか、悪いかであった。施設に戻って、もう一度だけのチャンスを栗坪代表から貰い、帰ってくることができた。でも、薬の止め方がわからなかった。止めたいと思ってないし、止めなければならないことが少しわかった。ダルクに戻ってきて、仲間たちが「お帰り」、「いっしょにやろう」と受け容れてくれた。「いっしょにやろう」という言葉が凄く温かかったのを感じた。回復の必要性を感じていたけど、薬の止め方がわからないので教えてくれるようお願いした。みんなに「止め方を教えてください」、というのが自分のスタートであった。今、クリーンが12年と10ヶ月くらいになる。仲間と一緒に生活するようになって、30分しか止められなかった自分が、1年間も止めているのに気が付いた。ちょうどこの時期、刑務所の受刑者教育に行き始めていた。家族再構築が始まる頃だった。つまらなく思っていた自分の人生が好転していた。日々楽しかったが、覚せい剤と比べれば、それの楽しさに勝るものはない。覚せい剤を止めてから、未だかつて覚せい剤を超える楽しさは見つからない。受刑者教育みたいなものが自分にとっての大きな転機であった。黒羽刑務所で受刑者のプログラムに参加するようになってそこで体験談を正直に話した。自分は刑務所に行きたくなくてダルクに入った。刑務所は怖いイメージがあった。薬を10年使うなかで離婚も経験したし、1歳半の娘とも別れなくてはいけなくなった。また、この先の未来が不安であること、何で日本では覚せい剤が違法なのかといった話をした。そうすると受刑者から自分の気持ちがよくわかると同情を得た。刑務官の人達が、よい話だと言ってくれた。薬物問題は自分の人生の汚点であると、できることなら隠したいことだと。刑務所で、自分の経験だけでなく自分の思いを話したときに、共感してくれる人がたくさん居て、何か人の役に立った感覚があった。自分の価値の無い、どうでもいい人生が人の役に立つ、これは今までにない感覚で病みつきになった。受刑者と会って、刑務所教育するのが楽しくて仕方ない。刑務所だけだったのがいずれ精神保健福祉センターや保健所にも行くようになり活動が広がっていった。誰かのために役にたっている感覚。スタッフ研修をするのか、就労活動をするのか栗坪代表から訊かれたときに、凄く悩んだ。親に背中を押して貰ってダルクの職員になることを選んだ。人生の汚点が自分の強みになることが嬉しかった。

ダルク職員になってライフワークという感覚だった。自分のために役に立つこともありで、それしかやらない。宇都宮の方のダルクの施設長をやらせて貰えたのは、9~10年前だった。その時に、一番病気が出た。自分の思う回復像が真の回復像だ。俺の言われたとおりに生きろ。意見とか聞かない。自分の提供したプログラムを受けなさい。しかし、半分くらいの入寮者は無事にダルクを卒業できた。一般的な社会復帰をして幸せを手にいれる者もいた。

多分、その人達はもともと薬物依存症がそれほど重くなかったからだと思う。もっと言うと、自分がいようが居まいが回復する力を持っていた。ダルクのなかでも途中で挫折する人がいた。今までのダルクではミーティングだけをやって、そのなかで自分で気付いて新しい生き方に繋げていくことを周りの仲間に気付かせてあげながらその足で歩いていく。この頃に、相模原ダルクの田中代表が宇都宮ダルクでうちのプログラムを受けていた。この頃、ダルクは荒れていたし、自分が運営していたものが正しいかどうか葛藤していた。田中代表は出会った頃から自分を買ってくれ、傍についてくれていた。「すげえ、すげえ」、とおだててくれたり、やっていることが間違っていないことを確認できた。色々な人達と向き合うときに、彼はすごい説得力があった。ずっと一緒に居るときは、我々の夢を語っていた。今はこんな小さなダルクだけどいつかは地域の中心に成り得るだろう。我々が本気を出せば、行政自体さえも動かせる。ダルクはいっぱいあるけど、もっと胸を張れる良いダルクを作って行こうよって、毎日こんな話をしていた。それまでのダルクでは、綺麗ごとは言わない方がいい、人の回復支援をやっているなんて思わないほうがよい、人は変えられない、自分のことだけに集中しろ、と言われてきた。うちの代表とすら話せる部分と話せない部分とがあったが、田中代表とは馬が合ったため、ダルクの可能性とか我々の思いとかが共有できていた気がする。今、アウトリーチ部長という役職であり、僕は僕でやりたいことをさらに広げて行った。薬物依存症に困っている人がダルクに居るだけでなく、その家族がもっとたくさんいる。その人達に何ができるか、やりたいことはたくさんある。そのうちの一つや二つをここ数年で広げてきた感じである。今、家族支援で言うと、栃木にはダルク主催の家族教室がひとつあり、家族の人達が主催している家族会、それとナラノンNAみたいな自助グループがある。あとは、栃木県精神保健福祉センターが主催しているものがある。県北でも家族会を開いている。来年度から県南でも開くことになっている。それぞれ目的が違い、立て付けが違っている。やっている内容も違い、窓口も違う。要は選択できるということである。全てに栃木ダルクが絡んでいる。ダルクとして、当事者として、回復を続けている者として伝えられることがたくさんあるような気がしている。家族支援に関してあまり語られない。刑務官の人達からは家族支援の可能性が出てきたと、また保護観察署の人達と話すと、家族の繋がりが間違いなく深くなることを言われた。全国の健康保健福祉センターで、現在、家族向けの家族会やプログラムを認めざるを得ない環境になってきている。ここ4年間、私は私で進めてきたが、田中代表は田中代表で相模原ダルクを形づくってきた。これからはチーム相模原かも知れない。

 

栃木ダルク自体、褒めてもらえることが多い。要するに、スタッフがたくさんいること。だから出来る活動が多いこと。初期・中期の社会復帰期の施設に責任者を置けるということ。ダルクとして、収益事業がしっかりできること。どれもが職員を育てるということに掛かっていると思う。現在、ダルクは全国に50団体100施設ある。どのダルクも代表がお金持ちである。しかし、ナンバー2がきちんと輩出されているダルク、生きがいを持ってやっているダルクは、果たしてどれくらいあるのだろうか。自分が知っている限りでは、片手で数えられるほどしかないと思っている。栃木ダルクが職員をたくさん抱えられているのは、きちんと給与を払えているからだ。そして、その人の生きがいをきちんと提供しているからである。相模原ダルクの田中代表も職員を育てるところに8割くらい使っていると感じる。相模原ダルクは、何か凄く可能性があるような気がしている。栃木ダルクの強みは、ナンバー2と3の立ち位置の人達が、他の施設長と同じように渡り合えるということだ。多分、相模原ダルクも同様にやって行くのだろう。相模原ダルクは3年経過しただけなのに凄い強さ、行動力を感じる。

栃木では卒業前に家族再構築というプログラムを受けられる。これは、本人が希望する場合や家族が希望する場合である。これはダルクのスタッフが間に入って面談を重ねること。

本人が家族に対して何を思い、家族は本人に対してどう思っているかをただ聞くだけのこと。要は、卒業する前に家族と本人の距離間を話し合いのなかである程度決めないか、というプログラムである。それをやるまでに1年という準備時間を取っている。入寮してから1年間はやらない。止めたい、回復したいという理由付けが「家族」であるということ。

だから、一刻も早く家族のところに帰りたいし、会いたいし、新しい生き方に慣れていない当事者が、今まで散々甘えていた家族と距離感を最初から取れる訳もなく、間違えることから準備のための時間が必要である。また、家族の方は、本人の回復を信じられるようになるまで待つ。家族は本人が仕出かした傷を負っているから、全部を話せないが少しでも話をできるまでの時間が必要である。

 

プログラムの最短期間を設定しているのが1年である。1年で退寮した人は今まで1名しかいない。平均入寮期間は3年3ヶ月くらいである。以前、5年掛かっていたものを、今の3年に近づけてきた感じである。5年から10年の人が数人いた。個人の意見として、ダルクは長く居ると害がある。あくまでも入寮施設であり、自分で責任を負いながら過ごす場所ではない。唯の入寮者であるならば3年が限界であり、その後は悪化すると思うので卒業させる。スタッフ研修をやっていれば職業選択に近いという点、また責任を持っているという点である。止めるとか回復するだけの目的で入寮した場合とは異なっている。社会復帰のところが一番時間が掛かっている。施設数が5個あって入寮者は58名、卒業生は、毎年10名前後。一方、女性施設ができて5年になるが、卒業という形になったのはまだ3名しかいない。入寮者は現在12名である。女性の支援はとても難しく、男性の入寮者と比べてトラブルが多い。

 

【後半】

時間があと30分ということもあって、全てお話できない。そこで、自分自身と家族との関係を今日はお話したい。

13年前の入寮時の1年くらい前に、家族からダルクに行ってと言われた。家族は、自分が薬を使っているとわかったのが、そのさらに1年くらい前だったので、末期になる2年くらい前に家族が知った。それも、自分から3歳年下の弟に覚せい剤をやっていることを話してしまった。覚せい剤は、結構よいものだと話をしたようだ。その頃ボロボロだったけど、強がっていた。弟は、自分をリスペクトしていたので、やっている事実を抱え込めなかったのだろう、話を聞いた翌日には両親に伝えたみたいだ。両親が知ることになって、親としてはなんとかしたいという思いがあるから、そこから色々調べたようだ。

だから、ダルクというところに辿り着いた。なんかわからないけど富士山に登ろうとか、

滝に打たれにいこうとか、四国のお寺回りしようとか、訳のわからないことを言っていた両親がいた。とにかくダルクに入ってくれ、相談に行ってみよう、と日本橋にある近藤恒夫氏の日本ダルクに連れていかれた。原宿カウンセリングセンターにも行った。本当に、両親は誠心誠意いろいろなことを自分のためにやってくれたが、途中から母親が精神安定剤を飲むようになっていた。よく眠れなくなっていたようだ。当時、両親とは高2から同居をしていなかった。仕事はもういいから入寮してよ、という感じだった。夏休みのときに仕事を休んで藤岡の施設に体験入寮した。栃木ダルクに繋がる1年前くらいから、家族は東京の家族会と宇都宮の家族会に通い始めていた。そこから両親は、3年間宇都宮の家族会に毎月通ってくれた。入寮して3ヶ月で施設を飛び出し、自分が助けを求められる場所は、両親と友人という友人全てであった。借金も返さなかった。腹が立つと人をひっぱたいていた。妄想も入っていたので、追いかけられている妄想から電車を急に降りてみたり、車を運転していても後ろから追われている感覚があった。薬中の人からも避けられていた。施設を飛び出したのはいいけど、両親や妻が受け容れてくれないと、自分は生きて行けないから必死に頼み込んだ。飛び出してから初めて父親と母親と話したときに、金もない、住む場所もない、係わってくれる人もいない、仕事が出来ない、仕事ができるまで3日間家に居させてくれという話を断られて、「本当に死んじゃうから、」と頼み込んだが、父親から「お前の選択だから仕方がない、家族は自分が施設に戻って貰い、プログラムを終わらせ卒業してから支援したい。でも、お前が自分からダルクを出てお前なりにやるというのなら、死んじゃったとしても仕方がない。お父さんもう決めたから。」、と告げられた。そのとき、これが「突放し」かと、結構痛かった。こんなことを言うはずない、お父さんとお母さんは。自分のことが大好きだから。自分が傷つくというか困るというか、そういうことを強いてくる筈がないと思っていた。母親はずっと泣いているだけ。父親が決意を固めて自分に話してきたことはえらくショックであり、「今のままでは駄目なんだ」、と感じるには十分すぎる言葉だった。それからダルクに再入寮して、家族との関係がそこから1年2ヶ月の間、何もなくなった。その間、ニュースレターで自分の活動は伝わっているし、栗坪代表とも電話でやり取りしているみたいだった。両親は、家族教室に月に1回日曜日を潰しお金を掛けて通ってくれていた。家族再構築の場が与えられ、1年2ヶ月ぶりにスタッフ研修が始まっていた。自分と両親と栗坪代表4名とでテーブルを囲び、1年2ヶ月ぶりに両親と会えるこの機会にダルクを出ようと思っていた。やっと説得のチャンスが来たかと。席に座ってみると、母親がずっと泣いていた。父親が「頑張ってくれてるんだなあ」、と言ってくれた。一方、栗坪代表は「腹を決めると強い子ですね。施設の職員研修として本当に頑張ってくれている。卒業するか、このままスタッフを続けるか、迷っていいところまで来ました」、と返した。栗坪代表からスタッフ研修に頑張ってくれていると説明があったときに、父親がそういう道もあるんだなと言ったのを覚えている。他の人に支援をすることは、何かいいなって。ダルクの職員の道があるとすれば、それは良い選択肢だと両親から言われたので、実は今日ダルクから出ようとしていたことが言えなくなってしまった。栗坪代表がダルクの職員として働くのであれば、全面的にサポートすることを言ってくれたことで、思わず自分からダルク職員を目指すことを口からポロリと出てしまった。本当に言ってしまった。それまでは、ダルクの職員は糞だと思っていた。金儲け主義で、人の気持ちがわからない、突放しとかやりやがって、その場その場で言うことが違い、とにかく愛が足りない、能力の低い奴らの集まりだ、と感じていたのに。職員をやってみると言った時に、母親がまた泣いた。嬉しくて泣いていた。父親の空気も変わる。みんなが緊張して席に着いていた。それから、3ヶ月に1回実家に泊まりに帰るようになった。ところが、1回目の泊まりの時にしたことが、覚せい剤を買いに行くことであった。夜10時くらいに出て、買う場所もわからないのでとりあえず渋谷に向かった。109の所に車を止めて、車から出るか出ないか、夜中2時間くらい車中で迷っていた自分がいた。施設では部屋を貰っていたので、覚せい剤をやってもばれやしまいと思いのなかにいた。また、大切なものや、自分とかを裏切ることになるのか悩んでいたときに、ちょうど母親から電話があった。特に用事があっての電話でなく、ただ大丈夫かを確認するかの電話だった。車から降りずそのまま帰った。

家族再構築だから、家族の下に帰ったらきちんと息子してこい、甘えてもいいし、これからどうやって家族と係わっていくかのスタンスを一つ一つ確認するよう言われたが、しょっちゅう、母親と喧嘩になった。帰ると凄いディナーが並んでおり、当時33・4歳になっておりもう小学生でもないのに、ご飯の御代わり要らないのか、もっと食べなさいとか、ずっとずっと言われた。善意なのはわかるが、甘えたのだろう。一方、父親とは回数を重ねるに連れて、1~2年くらい経ったときに「安定してきたか」、と投げかけがあった。「まあね」くらいの会話でも成立した。途中から親孝行ということも考えるようになって、再婚して子供が出来て実家に帰るようになって、でも2泊すると母親と必ず喧嘩をしてしまう。母親は自分と似ているのだろう。お互いに大好きなのはわかるけれども、お互いにコントロールしたがるのが原因だろうか。職員になってからというもの、これは里帰りだ。枠組みは少しずつ変わっていったが、自分のなかで親という特別な存在が甘えというのはそう簡単ではない。途中でもう諦めた。母親とは喧嘩するものだと、だから2泊を1泊に変えた。そうしたら、喧嘩しなくなった。家族再構築という枠を始めて12年になるが、去年の夏に2泊3日で喧嘩しなかった。自分のなかで大きく変わったことは無い。多分4~5年経った頃から社会のなかで薬物の回復を続ける者として、またダルクの責任者として、ある程度の枠のなかで生きてきたと思うし、家族への思い父親・母親への感謝、ダルクに繋げてくれた当時は両親への恨みがあったが、両親が本気を出してくれていなかったら、当時ダルクに戻っていなかったし、戻ってなかったら多分死んでいただろうし、本当にチャランポランに人生を生きていた。

最近、両親とはよく話をするようになった。返って、家族再構築に「力を入れている」間は、手に入らないもののような気がする。結局、形が出来上がるまで待っているしかないものだ。当初は、優れたモデル(例)になろうとしていた。家族再構築も理想的なものでなければならなかったし、ステップごとに展開するようなイメージを描いていたが、父親、母親について追い求めていた自分の理想像を取っ払うことも大事かもしれない。子供が出来てから少しずつそのことが変わってきた気がする。昔は、家族教室ではなんでこれが出来ないと思いながら話をしていた。今は、それが家族だからと思うようになった。そういうところがあるかもしれない。家族が待ち焦がれて期待しても時間が掛かるものかもしれない。そのうちに関係がよくなるかもと最近は思えている。家族再構築は、諸刃の剣だと考えている。本人達の回復をすごく深めて前進させる可能性もあるが、今の生活を手放して大きく後退させる可能性もある。だから、準備ができていることが重要なことだと思っている。いずれにせよ、自分の体験に基づいた支援ないし方法しかイメージできない、もう一つはプログラムの組み立てとか家族再構築の有り様は男性の目線である。ダルクは男性チックだ。その辺が栃木ダルクでもう少し考えないといけない部分であり、女性の家族再構築をどういう形で深めて行くのかが今の課題でもある。家族再構築に関して、相模原ダルクは個別に必要度に応じて対応していくのではないかと感じる。栃木ダルクでは、家族再構築した方が総論だけれどもうまく行っている。今はダルクにたくさんの仲間がいるが、卒業したのちにどうするのか。家族は家族であり続けるので、再発に家族が関係しているケースが多い。係わり方、生き方の癖、回復してきた本人に好影響も悪影響も与える。だから、準備が整ったなら再構築をして卒業して貰う形を基本としている。お伝えしたいことは以上になる。

 

危険ドラックと覚せい剤の違いみたいなものはあるような気がする。男性でも女性でも若い人、特に十代でダルクに繋がってくる人の定着率の低さはどうしても否めない。自分が29歳の終わりにダルクに繋がって、あれが5年早くてもダルクに居続けていなかっただろう。若いとは力があることなので、若いうちにプログラムに繋がる方がよい。回復の力を持っている。社会復帰した後に素面の人生を楽しめる。生きがいを持ちやすい。メリットはたくさんあるような気がする。正直、栃木ダルクの入寮者の平均年齢もここ5年で上がってきている。定着率も上がってきている。難しいところである。ただ、危険ドラックによる入寮の波が栃木ダルクでも終わった。一時、すごく増えた。危険ドラックでも覚せい剤寄りのものが多かった。若いけど、人間関係が悪い子達のなかにいたり、エネルギッシュであったり、クラブドラックの延長線上、時間を単に潰すために薬を使っていただけでなく、何かしたいから使ったりするので、生きるエネルギー、回復の力とか方向性を変えてあげれば生き直しできる子は多いと思う。栃木で一番苦戦しているのはアルコールの高齢者である。他には、物質だけでなく障害を抱えた人達への居場所作り、ケア、ダルク卒業した後に何を幸せとして生きていくのか、そういうところをみんなで作っていく必要がある。

家族が本人の依存症の回復を諦めてしまったら、それですべてが終わりです。

                                                                                                                      世話人:広瀬(渡邊)